民盟での活動、中華人民共和国への参加とは? わかりやすく解説

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民盟での活動、中華人民共和国への参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 00:14 UTC 版)

沈鈞儒」の記事における「民盟での活動、中華人民共和国への参加」の解説

1939年民国28年)には、沈鈞儒全国各界救国聯合会を代表して黄炎培らによる統一建国同志会結成参加した1941年民国30年)に同会が中国民主政同盟改組された際には、同盟内の反共派から親共の沈や全国各界救国聯合会への反発の声が上がり最初は沈は加入できなかった。しかし翌年加入認められている。1944年民国33年9月、政団同盟中国民主同盟(民盟)に改組されると、沈は中央常務委員選出された。 戦後1945年民国34年)冬には、全国各界救国聯合会は中国人救国会へと改組され、沈鈞儒主席選出された。翌1946年民国35年1月政治協商会議(旧政協)に沈も民盟代表として出席し国共内戦反対表明している。同年、民盟から反共中国青年党中国民主社会党離脱制憲国民大会出席したが、内戦反対派の沈は民盟で引き続き活動している。その後、民盟は国民党から違法団体とされ取締受けたが、沈は弾圧にもかかわらず香港など活動継続した1948年民国37年9月沈鈞儒と章伯鈞は香港から東北三省中国共産党支配区(解放区)へ赴き、以後新政権設立準備活動加わったその後、民盟の解放区への移転表明し9月開催され中国人民政治協商会議新政協)に民盟を代表して出席している。この際に、沈は政協全国委員会副主席中央人民政府委員選出された。 10月中華人民共和国成立すると、沈鈞儒初代最高人民法院院長任命されている。以後、民盟主席、全国人民代表大会全人代常務委員副委員長などを歴任した1963年6月11日北京にて病没享年89(満88歳)。

※この「民盟での活動、中華人民共和国への参加」の解説は、「沈鈞儒」の解説の一部です。
「民盟での活動、中華人民共和国への参加」を含む「沈鈞儒」の記事については、「沈鈞儒」の概要を参照ください。

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