民盟での活動、中華人民共和国への参加
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「沈鈞儒」の記事における「民盟での活動、中華人民共和国への参加」の解説
1939年(民国28年)には、沈鈞儒は全国各界救国聯合会を代表して、黄炎培らによる統一建国同志会の結成に参加した。1941年(民国30年)に同会が中国民主政団同盟に改組された際には、同盟内の反共派から親共の沈や全国各界救国聯合会への反発の声が上がり、最初は沈は加入できなかった。しかし翌年に加入が認められている。1944年(民国33年)9月、政団同盟が中国民主同盟(民盟)に改組されると、沈は中央常務委員に選出された。 戦後の1945年(民国34年)冬には、全国各界救国聯合会は中国人民救国会へと改組され、沈鈞儒は主席に選出された。翌1946年(民国35年)1月の政治協商会議(旧政協)に沈も民盟代表として出席し、国共内戦に反対を表明している。同年、民盟から反共の中国青年党・中国民主社会党が離脱、制憲国民大会に出席したが、内戦反対派の沈は民盟で引き続き活動している。その後、民盟は国民党から違法団体とされ取締を受けたが、沈は弾圧にもかかわらず香港などで活動を継続した。 1948年(民国37年)9月、沈鈞儒と章伯鈞は香港から東北三省の中国共産党支配区(解放区)へ赴き、以後、新政権設立準備活動に加わった。その後、民盟の解放区への移転を表明し、9月に開催された中国人民政治協商会議(新政協)に民盟を代表して出席している。この際に、沈は政協全国委員会副主席と中央人民政府委員に選出された。 10月、中華人民共和国が成立すると、沈鈞儒は初代最高人民法院院長に任命されている。以後、民盟主席、全国人民代表大会(全人代)常務委員会副委員長などを歴任した。 1963年6月11日、北京にて病没。享年89(満88歳)。
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