穏健自由主義とは? わかりやすく解説

穏健自由主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)

イタリア統一運動」の記事における「穏健自由主義」の解説

一方イタリア政財界では穏健派ナショナリズム台頭するようになった穏健派イタリア統一の必要を絶対視はしておらず、現状体制維持しつつ、オーストリアからの独立現実的な改革を行うべきであると考えていた。代表的な人物には経済的自由主義連邦制説いた経済学者カルロ・カッターネオ、「イタリア希望」を著したサルデーニャ王国歴史家政治家チェザーレ・バルボサルデーニャ初代首相在任1848年)そして国王穏健な民主改革説いたサルデーニャ王国政治家マッシモ・ダゼーリョサルデーニャ首相在任1849年-1852年)がいる。 1839年自由主義知識人による第1回科学者会議開催され以後1848年まで毎年開かれた知識人たちが科学技術社会問題について国境越えて議論をしたこの会議イタリア意識形成一助となった。この会議労働者貧困救済目的とした相互扶助協会設立された。労働者対す慈善啓発目的とした相互扶助協会政治的性格を持たなかったが、後に労働組合運動の源泉となってゆく。 芸術文化分野でもナショナリズムへの傾向強まった代表的なナショナリズム作品にはマッシモ・ダゼーリョの『エットーレ・フィエラモスカ(英語版)』とマンゾーニ歴史長編小説いいなづけ』がある。『いいなづけ』の初版ミラノ地域であったが、1842年版はフィレンツェ語であり、読者がこの言葉標準イタリア語として共有するようにと意識的に努力している。 ピエモンテ聖職者ヴィンチェンツォ・ジョベルティ1843年出版され著書イタリア人倫理的市民的優位について』で教皇盟主とする連邦国家提案し聖職者はじめとする保守的な人々から注目された。1846年選出され教皇ピウス9世教皇国家改革断行し自由主義的教皇呼ばれ教皇中心とするイタリア改革機運高まった(ネオグェルフ主義英語版))。 これに対して革命家多く共和制志向していたが、最終的にイタリア統一する勢力穏健的な立憲君主制であった。 だが、こういった統一機運ローマ教皇庁からの反対に直面している。教皇ピウス9世はこの地域における権力放棄はイタリア・カトリック教会対す迫害につながると恐怖していた。実際民主主義者たちはカトリック教会に対して嫌悪感露わにしており、マッツィーニはもはや神の声教皇ではなく人民によって語られる教会攻撃しイタリア統一後にはガリバルディ教皇位の廃止主張するほどだった。

※この「穏健自由主義」の解説は、「イタリア統一運動」の解説の一部です。
「穏健自由主義」を含む「イタリア統一運動」の記事については、「イタリア統一運動」の概要を参照ください。

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