穏健自由主義
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一方、イタリア政財界では穏健派ナショナリズムが台頭するようになった。穏健派はイタリア統一の必要を絶対視はしておらず、現状の体制を維持しつつ、オーストリアからの独立と現実的な改革を行うべきであると考えていた。代表的な人物には経済的自由主義と連邦制を説いた経済学者カルロ・カッターネオ、「イタリアの希望」を著したサルデーニャ王国の歴史家・政治家チェザーレ・バルボ(サルデーニャ初代首相:在任1848年)そして国王に穏健な民主改革を説いたサルデーニャ王国の政治家マッシモ・ダゼーリョ(サルデーニャ首相:在任1849年-1852年)がいる。 1839年に自由主義知識人による第1回科学者会議が開催され、以後1848年まで毎年開かれた。知識人たちが科学技術や社会問題について国境を越えて議論をしたこの会議はイタリア意識形成の一助となった。この会議で労働者の貧困救済を目的とした相互扶助協会が設立された。労働者に対する慈善と啓発を目的とした相互扶助協会は政治的性格を持たなかったが、後に労働組合運動の源泉となってゆく。 芸術や文化の分野でもナショナリズムへの傾向が強まった。代表的なナショナリズム作品にはマッシモ・ダゼーリョの『エットーレ・フィエラモスカ(英語版)』とマンゾーニの歴史長編小説『いいなづけ』がある。『いいなづけ』の初版はミラノの地域語であったが、1842年版はフィレンツェ語であり、読者がこの言葉を標準イタリア語として共有するようにと意識的に努力している。 ピエモンテの聖職者ヴィンチェンツォ・ジョベルティは1843年に出版された著書『イタリア人の倫理的、市民的優位について』で教皇を盟主とする連邦国家を提案し、聖職者をはじめとする保守的な人々から注目された。1846年に選出された教皇ピウス9世は教皇国家の改革を断行して自由主義的教皇と呼ばれ、教皇を中心とするイタリア改革の機運が高まった(ネオグェルフ主義(英語版))。 これに対して、革命家の多くは共和制を志向していたが、最終的にイタリアを統一する勢力は穏健的な立憲君主制派であった。 だが、こういった統一の機運はローマ教皇庁からの反対にも直面している。教皇ピウス9世はこの地域における権力の放棄はイタリア・カトリック教会に対する迫害につながると恐怖していた。実際、民主主義者たちはカトリック教会に対して嫌悪感を露わにしており、マッツィーニはもはや神の声は教皇ではなく、人民によって語られると教会を攻撃し、イタリア統一後にはガリバルディが教皇位の廃止を主張するほどだった。
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