穏健派と急進派の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:03 UTC 版)
「イラン立憲革命」の記事における「穏健派と急進派の対立」の解説
1909年7月、各地で蜂起した地方勢力がテヘランに入城した。モハンマド・アリー・シャーはロシア大使館に逃げ込み、最後のシャー、アフマド・シャーが即位した。8月5日、第二議会の再開が宣言された。 第二議会における選挙法は第一議会と比べてある程度、条件の緩和が見受けられる。具体的には、 社会層別選出の廃止と宗教的マイノリティ枠の設定 テヘラン選挙区選出議員数を60から15へ、地方選挙区選出議員数を96から101へ拡大。 資産条件の緩和。 となる。その結果、第一議会と比較しても、穏健な傾向を帯びるようになった。しかし、第一議会の際に鮮明となった穏健派と革命派の対立はそのまま残った。 穏健派は議会の約3分の2を占め、ウラマー、地主、高級官僚出身者が多かった。彼らの主張は、立憲君主制を強化し、法の護持の原則を掲げ、バーザール中間層への支援、テロリズムの排除を訴えた。中心は、有力モジュタヒドであるアブドゥッラー・ベフベハーニーである。 一方の革命派は、官僚、ジャーナリストなどが中心であり、法の下の平等、政教分離、土地改革、無償教育を主張した。中心を担ったのは、ハサン・タギーザーデなどである。 彼らの対立は、議会外の武装衝突、暗殺の応酬にまで拡大した。ベフベハーニーが1910年7月に暗殺されるとその報復事件が起き、政府は「武器携行禁止令」を発布し、事態の収拾を行った。
※この「穏健派と急進派の対立」の解説は、「イラン立憲革命」の解説の一部です。
「穏健派と急進派の対立」を含む「イラン立憲革命」の記事については、「イラン立憲革命」の概要を参照ください。
- 穏健派と急進派の対立のページへのリンク