直魯聯軍から国民革命軍へ
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東海県城北富安村出身。丁子孝の子。幼い頃より儒学や詩文に親しみ、当初は旧学を学んでいたが、辛亥革命後の1912年(民国元年)3月、江蘇陸軍講武堂第1期歩兵科に入学し、同年11月に卒業した。まもなく顧忠琛が師長を務める镇江駐屯の江蘇陸軍第16師隷下の第32旅(長:趙念伯)に配属され排長となる。二次革命失敗後、第32旅が解体されると軍を去るが、北洋政府の第一次世界大戦参戦が決まると軍に復帰。江蘇陸軍軍官教育団正班第1期を受ける。 1916年(民国5年)11月の修了後、陸軍第76混成旅(長:張仁奎(中国語版)、兼通州鎮守使)歩兵第151団附となり南通、海門一帯の防衛に当たる。その後、直隷派と敵対する魯軍(奉天派張宗昌軍)に鞍替えし、徐源泉陸軍第23師附。1925年(民国14年)春には中校昇進と同時に主任参謀、間もなく参謀長兼討赤軍第2・第7方面軍前敵総司令部参謀長となった。その翌年には第6軍少将参謀長兼鎮威軍中路総指揮部中将参謀長を兼ね、1927年(民国16年)には討赤軍第2路総指揮部参謀長となっている。 北伐が進行すると、張宗昌は敵対関係にあった直隷派の孫伝芳と連携し直魯聯軍を結成するが、上海、南京が陥落し戦局は覆せない状況となっていた。1928年(民国18年)、徐源泉が北京政府を見限って国民政府に易幟すると、丁もこれに追随。同年6月、丁は国民革命軍第1集団軍第6軍団部中将参謀長(軍団長は徐)に任命されている。北伐終了後の軍縮に伴い第6軍団が第48師となっても、引き続き少将参謀長を務めた。1931年(民国20年)2月、丁は中国国民党に加入し、同年5月、第10軍第11師第121旅旅長に任命されている。1933年(民国22年)10月、陸軍大学正則班第12期に加入し、1936年(民国25年)11月に卒業した。
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