反動政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:49 UTC 版)
「ミゲル1世 (ポルトガル王)」の記事における「反動政治」の解説
1828年3月13日、ミゲルはコルテスを、憲法で規定された新たな選挙の実施を宣言せずに解散した。地方の評議会、貴族、聖職者 や主だった市民の中には憲法の取り消しと、王として即位することを要望する者もいた。自由主義派による最初の流血があったが、この時にコインブラ大学からの派遣団(表向きはリスボンにミゲルに表敬訪問することになっていた)が3月18日に怒りっぽい学生に殺害されたのである。4月25日に、大学の評議員会は布告を出し、その中でミゲルに王位に即くよう要請した。これは自由主義者と絶対主義者との間の問題をあおっただけである。ブラジルの独立のせいで、ミゲルの支援者はミゲルこそがポルトガルの正統な王位継承者と見做していた。自由主義者にとってはミゲルの名は侮蔑の対象であったが、絶対主義者にはその名は尊敬すべきものであった。しかしミゲルの治世はすぐに、残酷で、ほとんど専制的な統治、そのいくらかは彼の性格によるもので規定された。しかし他の者たちが、それらを母后カルロッタの悪意に属するものと考えた際には、彼の部下の不正を非難する者もいた。
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