反動期における四分五裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 21:02 UTC 版)
「ロシア社会民主労働党」の記事における「反動期における四分五裂」の解説
1907年6月3日、ツァーリ政府の首相ストルイピンは第二国会を解散し、社会民主労働党の国会議員を逮捕した。これにより第一革命は終わり、ロシアは反動期に入った。選挙法が労働者に不利なように改悪されたため、社会民主労働党が第三国会の選挙で得た議席は442議席中19議席となった。 この反動期において、ボリシェヴィキの一部は国会議員を召還すべきだと主張した。召還主義と呼ばれる。また、国会議員に党への従属を要求する最後通牒をつきつけるべきだ、という最後通牒主義も現れた。これらのグループは1909年に独自の機関紙として『フペリョード』を創刊し、レーニン派と対立した。 一方、メンシェヴィキの中からは召還主義とは正反対の考え方が出てきた。非合法の地下活動を清算して合法的な大衆組織での活動にエネルギーを集中することを主張するもので、ボリシェヴィキからは解党主義と呼ばれた。メンシェヴィキの中でもプレハーノフを中心とするグループはこの考え方に反対し、党維持派メンシェヴィキを形成した。 以上のような四分五裂の状況の中で、トロツキーを中心とするグループは党の統一を回復することを目指し、1908年にウィーンで『プラウダ』を創刊した。この活動は一定の成功をおさめた。1910年1月にはパリで党中央委員会総会が開かれ、各派の代表によって分派の清算が合意された。しかしこの合意は守られず、レーニン派は独自の党の建設を目指す動きを強めていった。
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