反動文人・漢奸のレッテル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 07:14 UTC 版)
『貝殻』が文学賞を取り、日本と華北の政界から集中砲火を浴びる。『貝殻』は内容的に「大東亜」的ではないことから日本から非難を浴びさせられ、「日本と接触」した事実だけで自国から色眼鏡で見られるという進退窮まる状況にいた。当時の受賞後の袁犀は以前よりも収入を得るようになったが、家庭問題で喧嘩が絶えない他、身体的健康の悪化や「大東亜文学賞」獲得の罪悪感からくる精神的ダメージは彼を悩まし続けた。そうした状況を後の袁犀はこう振り返る。「・・・身体が悪い、肺病そして喘息も私の精神を悪くする原因であった。また、秘密の監視も受けていた。道中を歩く際、誰も私に目をくれず、他人を巻き沿いにしてしまうことを恐れて、私から挨拶するのも億劫になっていた。そうした重圧の中、内心の痛みは生活上の痛みの何千万倍にも及んだ。私はただひたすら書いた。趣味から書く一方で、純粋の文学的精神活動は私に自分、そして環境のことを忘れさせてくれる。当時は純粋に文学中の状態に浸っていた。・・・」こうした苦痛の状況を少しでも緩和するために、袁犀は本も濫読していた。中国語で買えない新書は日本語で読み、分からなくとも強引に読みきろうとした。フランスやロシアの多くの小説は日本語で読んだ。また、古代インドのシッダールタについての小説を書くために仏典や古書も読む。インド的な苦行者の姿に自分を重ねていた。しかしながら、書いている途中にヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読み、書くのを諦める。佐藤原三は袁犀をこう説得した。「釈迦について書くのはもっと歳いってからにした方が良い。二十三、四歳はサッカーをする年頃だ!」この時の袁犀はまだ23歳であった。24歳の時、『塩』と『凍りついた海』をそれぞれ『中国文学』と『中国公論』で発表。続いて短編小説『暗春』、『絶色』、『赤ドレス』を書き上げる。夏に華北作家協会が彼の短編小説集『森林の寂寞』を出版。(1939年5月から1943年7月の短編小説が収められている。)この年、第三次大東亜文学者大会から大会参加への招待状がきたが、身体の不自由を口実に辞退した。『貝殻』の続編『面紗』を書き上げ、新民出版社で出版。休む暇なく、三編の短編小説を書き上げる。文昌書店で『時間』を出版。7月に『創作季刊』の編集で、ライターの姚錦と出会う。27歳の時、農民の偉大な土地改革運動を反映させた『網と土地と魚』と『馬の歴史』を書き上げるが、初めて筆名問題にぶつかる。『東北文学』の一人の編集者が、「袁犀」は満州国政権(偽満)で使われていた筆名だから変えた方が良いと助言する。そこで、馬双翼に筆名を変える。偽満作家のリストに「袁犀」が載っていた。10月中にずっと会いたかった作家蕭軍と知り合う。11月新陽区に移動後、カール・リープクネヒトの発言を目にしたことを機に、正式に筆名を李克異(中国語のリープクネヒトは李卜克内西)に変える。この筆名には非無産階級の思想を克服するという意味が込められている。
※この「反動文人・漢奸のレッテル」の解説は、「袁犀」の解説の一部です。
「反動文人・漢奸のレッテル」を含む「袁犀」の記事については、「袁犀」の概要を参照ください。
- 反動文人・漢奸のレッテルのページへのリンク