恐怖政治の加速
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:42 UTC 版)
「プレリアール22日法」の記事における「恐怖政治の加速」の解説
法律により、革命裁判所の権限は拡大し、被告人が自ら身を守る能力は制限されることとなった。そして、革命の正義に抵触する者が増え、反革命の名のもとに恐怖政治はさらに加速した。一例として、パリ革命裁判所が死刑を宣告した人数は裁判所設立の1793年4月6日から1794年6月10日までの約1年2ヶ月間に1251名であるのに対して、1794年6月10日からロベスピエール失脚の1794年7月27日までの1ヶ月半の間に1376名である。 この法律の下における、全ての罰則は死刑であった。そのため、政敵を蹴落とすための政争の道具としても利用され、実際に無実の罪でギロチン送りになった者も多かった。 反革命分子の粛清を求めるジョルジュ・クートンによって提案され、マクシミリアン・ロベスピエールの支持を得て可決された。国内叛乱の鎮圧と、恐怖政治の強化を主張する左派および極左派には歓迎されたが、国民公会議員の中道派の多くは、この法の制定に内心では反対であった。粛清が自分の身に降りかかるのを恐れていたのである。この法律の制定から約2ヶ月後、一部の元派遣議員がロベスピエール派の打倒に動くと、中道派がこれに協調。テルミドールのクーデターが勃発し、ロベスピエールが失脚してクートンらと共に処刑された。新しく権力を手にしたテルミドール派が反動政治を行って、恐怖政治も終わりを迎える。同年8月1日を以って正式にプレリアール22日法は廃止された。
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