恐怖政治下の監禁生活
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恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。 7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモン(英語版)の元で過ごすことになった。シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメット(英語版)による監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。彼らはサンキュロットに見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。また、シモンはルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通商取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。 さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。 マリー・アントワネットの処刑後、今度はエリザベートを処刑するための証拠を作ろうとした。既にエベールらに洗脳されていたルイ17世は、かつて叔母が行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。この頃ショーメットは、常にルイ17世と過ごしているシモンが王党派に買収されるのではないかと不安になり、シモンを厳しい監視下に置いた。この待遇が面白くないシモンは、ルイ17世にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。パリ・コミューンはシモンに圧力をかけ、1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻とともにタンプル塔から去った。次の後見人は指名されなかった。 国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用されることを恐れたショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。 パリ・コミューンの派閥争いにより、エベールは支持者らと共に3月24日に処刑され、その3週間後にショーメットも処刑された。5月11日、ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。その後、7月28日にロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人シモンも処刑された。
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