サン‐キュロット【(フランス)sans-culotte】
サン・キュロット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 04:54 UTC 版)
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サン・キュロット(フランス語: Sans-culotte)とは、フランス語で「キュロットをはかないひと」というような意味で、フランス革命の推進力となった社会階層。主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民(固定資産の無い人)を指し、当時のパリでは貧困層に属した。
キュロットとは半ズボンのことで、当時貴族の一般的なボトムスであった。そして、長ズボンを履く庶民を貴族が馬鹿にして「サン・キュロット」と呼んだ。これに対し、労働者は不公平な身分制度に反対する意味をこめて、逆に自分たちを誇りを込めてこう呼ぶようになる。
サン・キュロット階層は、不況やパンの価格高騰などによって生活に苦しんでいて、参政権どころか一切の権利を持っていなかった。そのこともあり、フランス革命の到来はサン・キュロットに熱烈に支持され、1793年1月6日にパリ市当局が、1月6日の主の公現の祭日をサン・キュロットの記念日に改めるほどだった[1]。流言に端を発する暴動でバスティーユ牢獄を襲撃した7月14日のバスティーユ襲撃事件、九月虐殺など、血なまぐさい革命の暴力的側面はすべて彼らによって引き起こされたものである。
パリのサン・キュロットはフランス革命での不安定要素で、ブルジョワ主導の国民議会を悩ませた。立法議会になってもその傾向は変わらず、武装民兵と化した彼らが度々起こしたデモや暴動は議会への圧力となり、生活の改善を求める運動は、革命を急進化させた。各党派は、パリのサン・キュロットに迎合せざるを得ない状況にあったため、フランス革命が極端な平等主義や富の再分配といった、社会主義的な政策を途中で取り入れようとしたのは彼らの影響であった。
恐怖政治はサン・キュロットの熱心な要望で始まったものだが、ジャコバン派の分派争いで粛清を受け、特にサン・キュロット直接行動主義の代表格だったエベール派の処刑以後は扇動者を失って弱体化した。さらにテルミドールのクーデタを境に一気に衰退し、テルミドール反動と、その後の総裁政府や執政政府は大規模な弾圧を行ったため、サン・キュロットは革命勢力としての力を完全に失い、革命の主体はブルジョワジーのもとに戻った。
参考文献
- 世界の歴史 フランス革命とナポレオン 桑原武夫編 中央公論社、のち文庫
関連項目
- ^ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.131.
サン・キュロット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 20:44 UTC 版)
「フランス革命の年表」の記事における「サン・キュロット」の解説
8月10日8月10日事件 (テュイルリー宮殿襲撃)(パリ・コミューンの勝利) 王権停止の諸法令(王権停止・普通選挙の実施約束) 8月13日国王一家をタンプル塔に幽閉 ジロンド派内閣が復活。ダントンが司法大臣に就任 8月14日:ラファイエット軍司令官、パリ進軍を企図(兵士の反対で失敗) 8月17日自治市会(パリ・コミューン)、特別重罪裁判所を設置 連盟兵、国王廃位を要求 8月18日:バルナーヴ逮捕(〜1793年11月29日処刑) 8月19日:ラファイエット、軍を捨てて亡命 8月23日ギロチンの使用始まる ロンウィ要塞降伏 8月27日:次の議会のための予選会(第一次選挙)が始まる 9月1日:ヴェルダン要塞降伏 9月2日〜6日 : 九月虐殺 9月3日:選挙集会(第二次選挙)が始まる(普通選挙) 9月20日ヴァルミーの戦い(革命フランス軍が初勝利) 離婚法が成立(戸籍の世俗化) 立法議会は最終議事を終了して解散 国民公会召集 9月21日 : 王政の廃止を決議し、共和国宣言(フランス第一共和政成立) 9月22日:この日が革命暦の元年元旦となる 9月25日ジロンド派が提案した州連邦制度案を否決 ジロンド派、ロベスピエールを「独裁を目指す者」として告発 10月2日 : 国民公会、保安委員会や公教育委員会など14の委員会を設置 10月6日:ジェマップの戦い 10月8日:ビュゾー、県衛兵隊(連盟兵)の創設を提案 10月10日ダントン、機密費問題で司法大臣辞職 パリ・コミューン、ジャコバン・クラブからブリッソーを追放(ジロンド派脱退) 11月13日:サン=ジュスト、国王裁判について演説 11月27日:サヴォワを併合 12月4日:国王裁判開始(〜1793年1月15日結審)
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