ペチョーリンを生み出した作家と時代
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「現代の英雄」の記事における「ペチョーリンを生み出した作家と時代」の解説
ペチョーリンの人物像は、作者ミハイル・レールモントフ自身の暗い生い立ちによる個人的資質、そしてニコライ1世時代という執筆当時の時代背景と不可分とされる。 名門と自負する母方祖母は、娘の結婚に最初から反対だったため、ミハイルが幼い時から両親は不和であった。そしてミハイルが満3歳にも満たぬ時に母が死去すると、母方祖母と実父との不和と長い確執が始まった。詩人は裕福な母方祖母のもとで溺愛されて育ち、最高の教育を受けたが、絶えず孤独が影を落としていた。 そして詩人は、1830年から31年にかけて、モスクワの劇作家イワーノフ(ロシア語版)の娘、ナターリヤ・フョードロヴナ・イワーノワ(ロシア語版)の裏切りに遭い、手ひどい痛手を負っている。(実名と時期は、文芸評論家アンドロニコフ(英語版、ロシア語版)(1908年‐1990年)の入念な調査によって突き止められた。)この時期にレールモントフは、恋と心変わりをテーマとする一連の詩を書き、31年には戯曲『変わり者』Странный человекで、「ナターリヤ・フョードロヴナ」という娘を親友に奪われ、彼女の結婚式で悶死する青年アルベーニンを描いている。そして裏切りによる心の傷は終生癒えることが無く、実生活でのレールモントフも、ペチョーリンのように、女性を抜け目なく口説いては征服後に飽きる、というパターンを繰り返していた。 ニコライ1世(在位1825年‐1855年)の厳しい反動政治という時代背景も無視できない要因である。デカブリストの乱の首謀者は極刑に処せられ、プーシキンは仕組まれた決闘で殺され、レールモントフ自身もカフカースに追放された。エゴイズムとニヒリズムの権化のような主人公は、知識人が自由に物が言えず、何をなすべきかという方向性も全く見出せず、希望に満ちた行動も何も起こせない、という時代の生み出した必然でもあった。
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