ペチョーリンの性格的特徴
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「現代の英雄」の記事における「ペチョーリンの性格的特徴」の解説
有能な職業軍人であるペチョーリンは、無為徒食が許される地主貴族型の余計者(オネーギン、オブローモフなど)とは一線を画しているかに見える。にもかかわらず、ペチョーリンが常にロシア文学の余計者の代表に挙げられる理由は、彼の意識を支配する退屈と倦怠にある。『ベラ』でのマクシム・マクシームィチへの告白に見られるように、金で買える満足、上流社交界の美女たちとの恋、読書と学問、挑んだものにはすべて飽きが来て、「チェチェン人の弾丸の下には退屈はあり得まい」と始まったカフカース生活も、1か月もすると弾丸にも緊張にも慣れ、期待の大きかった分、一層退屈は耐え難いものとなる。異郷の美少女ベラでさえ、最初は「慈悲深い運命の女神につかわされた天使」であったものが、4か月もすると「山出しの娘の恋は、名門の御婦人の恋より、ほんの少しましなだけです。片方の無知と純朴さにも、もう片方の嬌態と同じくらい、飽き飽きさせられます」と、倦怠に支配されている。そして、自分を退屈から救い出してくれるものは、いまや遠い異国への旅しかあるまい、と告白を結ぶ。『公爵令嬢メリー』の最後でも、ペチョーリンは、自分は陸にいると退屈することを宿命づけられ、迎えの船を待っている船乗りのようなものだ、と書いて筆を置いている。ベラの臨終の3日間は、ペチョーリンはずっと付き添っていたが、M.M.はいみじくも「ベラは捨てられる前に死んで良かったですよ」と「私」に語っている。 これと並んで、周囲の人間へのエゴイスティックで冷たい態度も、ペチョーリンの主要な特徴である。これも「民衆を知らないために現実から遊離し、活動の地盤を持たない根無し草のような存在」という余計者の特徴と重なる。『マクシム・マクシームィチ』での M.M.への態度、そして『公爵令嬢メリー』でのグルシニツキーへの態度に端的に表れているが、『ベラ』で M.M.に退屈と倦怠を告白する場面でも、「自分が誰かの不幸の原因になっている時には、自分もそれに劣らず不幸なのです」という自己正当化の論理が見られ、冷酷で冷笑的なエゴイストという描写は、全篇の随所に散りばめられている。 ペチョーリンの女性への態度は更に破滅的である。『公爵令嬢メリー』では『ベラ』の遙か上を行き、最初から「誘惑する気も無ければ結婚する気も無い」(『公爵令嬢メリー』6月3日)メリーに、グルシニツキーやヴェーラとの力学、そして彼女は自分になびくという確信(5月23日)だけで接近し、関わった人間はみな不幸になる。この悲劇の繰り返しには伏線が存在する。ペチョーリンが赤ん坊の頃、母親が占いの老婆に「この子は悪妻が原因で死ぬ」と予言されており(6月14日)、それゆえ「女のほかにはこの世で何一つ愛したものが無く、女のためなら何もかも犠牲にする覚悟でいる」(6月11日)にもかかわらず、「結婚を少しでも意識すると、燃えるような恋もたちまち冷めてしまう」(6月14日)。 尚、ベラを拉致したばかりのペチョーリンが、M.M.に「彼らの習慣によれば、私は彼女の亭主なのですよ」と答える場面を、「善悪の区別も麻痺した傲岸不遜なエゴイズム」と解釈することは、半分当たっている。イスラームの遊牧民と山地民には、カーリム(イスラーム式結納、マフル)の相場が高すぎる時には誘拐結婚の風習も見られたが、「こうした誘拐は当然に、関係する集団による血の復讐に発展したり、それに応酬する血塗れの騒動をともなったので、いくら遊牧民のあいだとはいえ、見ず知らずの集団のあいだで、それほど頻繁に誘拐結婚が行われたとは考えにくい。実際には、カーリムを払えない人びとがあらかじめ合意の上で行ったのであろう。それは、彼女の両親が前もって集めた親族一同の面前で騎馬の若者が女性をさらう儀礼から由来するのであろう」。勿論、ペチョーリンが「彼らの習慣」(原文 по-ихнему)をそこまで深く学んでいた形跡は無い。
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