王位に即く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
389年2月、呂光は三河王を自称し、領内に大赦を下し、麟嘉と改元し、丞郎以下の百官を設置した。当時、長安が乱れた事で、呂光の一族は後仇池の楊氏の下へ亡命していたので、呂光は妻の石氏・子の呂紹・弟の呂徳世を仇池より姑臧へ呼び寄せると、城東において出迎え、これを祝して群臣と宴会を催した。 石氏を王妃に立て、呂紹を世子に立てると、再び内苑新堂において宴を催した。太廟が新たに完成すると、高祖父を敬公、曾祖父を恭公、祖父を宣公、父の呂婆楼を景昭王と、母を昭烈妃と追尊した。 中書侍郎楊穎は上疏し、三代(夏・殷・周)の故事に倣い、呂望(太公望)を始祖と追尊し、永久に不遷の廟とするよう建議すると、呂光はこれに従った。
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