王位のための争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:01 UTC 版)
「アンドラーシュ1世」の記事における「王位のための争い」の解説
ハンガリーの年代記はこう記述している。オルセオロ・ペーテルの没落に伴い、異教徒でいることに決めた兄レヴェンテと合意の上でアンドラーシュがハンガリーを統治することになった。兄の死後、アンドラーシュは1047年に戴冠しただけだった。それにもかかわらず、彼はキリスト教化政策を続けた。戴冠式後、彼はイシュトヴァーン1世の法令をいっそう強固にし、外国人聖職者をハンガリーに招聘した。なぜなら異教徒の反乱側がキリスト教聖職者たちを何人か殺害したからである。 神聖ローマ帝国との関係は緊張したままだった。皇帝がオルセオロ・ペーテルの同盟者であっただけでなく、帝国の臣下であったからである。アンドラーシュは帝国の宮廷へ大使を派遣し、皇帝への臣従を表明した。ところがハインリヒ3世は和平を拒絶した。そのためにアンドラーシュは間近となった戦争の準備を始めた。彼はポーランドで軍事指導者として功名をあげていた実弟ベーラを宮廷へ呼び寄せ、ハンガリー王国の1/3の支配権を彼に委任した。 1051年、ハインリヒ3世は対ハンガリー遠征に乗りだしたが、皇帝軍は、全軍が偽の手紙により退却を誘発させられ、ヴェールテシュの丘で打ち負かされた。1051年の終わり、修道士クリュニーのユーが2人の君主の間の調停に入ったが、皇帝は和平を拒んだ。翌1052年、皇帝は艦隊を率いてポゾニ(現在のブラチスラヴァ)へ進軍したが、彼の艦船はアンドラーシュ軍により沈められた。この時、ローマ教皇レオ9世が和平を調停しようとしたが、またもハインリヒ3世はアンドラーシュの申し出を受け入れなかった。皇帝軍が撤退したとき、1053年にアンドラーシュは反皇帝派勢力であるバイエルン公コンラート2世と同盟を結んだ。 1055年、アンドラーシュはバラトン湖畔にベネディクト会派のティハニ修道院を創設した。彼は当地にいた正教会修道女のための修道院も建てた。
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