内苑
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鎮守の杜 内苑の全敷地の大半を占める。都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。この中にはほかの皇居などを除けば広い緑地が少ない東京都心部では通常見られないような生物が生息し続けており、動物学・昆虫学的にも非常に貴重な例となっている。 神宮鎮座以前、社地のほとんどは原野が広がっており、地元では「代々木の原」と呼ばれていた。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計に携わった人々を挙げると、林学では本多静六、本郷高徳、上原敬二、田村剛、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎。農学/造園では原煕、大屋霊城、狩野力、太田謙吉、森一雄、水谷駿一、田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄、井本政信、北村弘、横山信二、石神甲子郎。また、奈良女子高等師範学校(現:奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。 こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成した。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこの時に構想され、林苑計画に応用された。通常、神社の荘厳な鎮守の杜としてイメージされるのは杉やヒノキなどの針葉樹林であったが、代々木は暖帯であり、なおかつ都心に近く、煙害に強い必要があることから、針葉樹は不適とされた。そのため、最終的には広葉樹、特に樫、椎、楠を中心とした広葉樹林を目指すことを提言した。当初は成長の早い針葉樹もあわせて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に想定した。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。 提言が発表された当初、一部世論では「神聖な神宮の杜にやぶはよろしくない」と、反対意見が出た。時の首相・大隈重信も、伊勢神宮のような杉林を想定していたが、設計チームらが直談判し、仁徳天皇陵などを参考にしたことを説明、大隈の同意を取り付けた。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。 創建当初、外地の朝鮮半島、台湾を含めて全国から365種約12万本が献木され、計画的に植えられた。戦後から1960年代にかけてクロマツが約2000本、アカマツが約1000本が公害や病虫害の影響により枯死、一方1970年代には煙害に抵抗力があるとして植えられたクス類が確実に本数を伸ばし森林の遷移が順調に進んでいることが確認された。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本、2019年時点では樹木数は約3万6000本に減っている代わりに、残った木が巨木化しつつある。これは参道を掃き清める際に集めた落ち葉を森に戻す以外は人為的な手を加えず、森の変化を自然淘汰に任せているためである。 神宮御苑 正式名称は明治神宮御苑。江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われていた。明治時代に宮内省が所轄する南豊島御料地となり、代々木御苑と呼ばれた。ここは明治天皇と昭憲皇太后にゆかりの深い名苑であり、この地の風光をこよなく愛した皇太后はしばしば行啓したほか、明治天皇は隔雲亭という御茶屋を建て、四阿(あずまや)を作り、池には菖蒲を植え、回遊歩道を設けて美しい庭園とされた。内苑の中で唯一、神社鎮座前から樹木が生えていた。 隔雲亭は太平洋戦争の末期、アメリカ軍による空襲によって焼失したが、戦後に篤志家によって復元された。 現在、苑内には隔雲亭やあずまやのほか、お釣台、菖蒲田、清正井などがある。菖蒲田のハナショウブ(花菖蒲)は明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたといわれ、6月が最盛期である。また、11月下旬から12月上旬には、紅葉を愛でることが出来る。拝観は有料であり、料金は大人500円、16時30分閉門である。 明治神宮会館 鎮座五十年を記念して1972年6月に清祓され、翌73年1月にこけら落としとなった。ホールは毎年2月11日の建国記念の日慶祝中央式典や、5月の全国赤十字大会、コンサートや入学式・卒業式などで利用されており、客席数は1914席(1階1340席、2階574席)である。 明治神宮神楽殿 1993年(平成5年)造営(内田祥哉+アルセッド建築研究所 設計)。本殿に向かって右側に位置する。厄祓い、受験生の合格祈願、初宮参りや七五三詣などを執り行っている。 明治神宮ミュージアム 2019年(令和元年)10月26日、鎮座百年記念事業の一環で、新たな宝物館としてが開館した(隈研吾設計)。 参道 都心に近い本殿の東側に各種施設の大半が整備されており、ここを参道が南北に貫いている。 創建前にすでに北側は外苑予定地と馬車道で直接接続していることから、北側からの参道を正参道とする計画であったが、すると大鳥居が本殿から見て鬼門にあたる東北になることから反対意見が出て、南側を正参道とした。また、参道と本殿の接続として、すべての社殿を一時に拝することを目的に、東側(南面する諸社殿からみて左側)から参入する計画であったが、側面美の誇示が前面に出すぎていることから、南側正面から参入する形に改められた。本殿から南に直進すると御苑に突き当たるが、御苑を突き抜けることには御苑側の担当者から反対されたため、手前で東側に折れ曲がり、東側の参道に合流している。 南側の正参道から外部に伸びる大通りは「表参道」と呼ばれている。「表参道」という呼称自体は社寺一般のものであるが、注釈なしで「表参道」と呼称する場合は、明治神宮のそれを指すものが多い。内苑の目の前を横切る国鉄(のちJR)山手線を跨ぐ陸橋「神宮橋」は、鎮座に先立つ1920年(大正9年)9月に完成した。橋はRC構造で長さ20.4メートル、幅員29.1メートルである。 北参道鳥居に通じる参道(明治通り北参道交差点始点)はかつて「裏参道」と呼ばれていた。 ギャラリー 社殿遠望 三ノ鳥居 大鳥居 フランス・ブルゴーニュから献納されたワインの樽明治天皇が健康のためにワインを好んで飲んだことにちなむもの 酒樽 明治神宮御苑の花菖蒲 参道 元日の初詣 大鳥居(2012年1月撮影) 元日の初詣 南神門(2012年1月撮影) 元日の初詣 拝殿前(2012年1月撮影) 女性と絵馬 秋の大祭での古武道奉納(2012年11月撮影) 秋の大祭での流鏑馬奉納2012年11月撮影) 秋の大祭での古武道火縄銃奉納2012年11月撮影) 1938年、当時の同盟国ドイツのヒトラーユーゲントが来日し、明治神宮も訪問した 奉賽殿に向かって歩む“参進”
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