イギリス議会王政の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「イギリス議会王政の成立」の解説
王政復古後もチャールズ2世はカトリック官僚を採用するなどカトリックの復活を企図し、極端な反動政治を行ったため、議会は審査律(1673年)や人身保護律(1679年)を発してそれを牽制した。さらに次のジェームズ2世(在位:1685年 - 1688年)も同様の専制政治をおこなったため、ついに議会は1688年にジェームズ2世を廃位し、プロテスタントの熱心な信者でチャールズ1世の外孫にあたるオランダ総督ウィレム3世(ウィリアム3世)とメアリー(メアリー2世)の夫婦をむかえて「権利の宣言」を認めさせた。この政変は、流血の惨事なくおこなわれたことから名誉革命と呼ばれている。ウィリアムとメアリは翌年権利の宣言を「権利章典」として発布し、イングランドはこれを機会に立憲君主国へと変貌を遂げた。 1688年、ルイ14世がドイツのプファルツ選帝侯領に対し、弟のオルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットの継承権を主張して戦争をおこした(プファルツ継承戦争)。これに対抗してイングランド、スペイン、スウェーデン、オランダ、オーストリアはアウクスブルク同盟を結んでフランスのプファルツ継承を阻止した。北米では時のイングランド王ウィリアム3世にちなんでウィリアム王戦争とも呼んでいる。
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