イギリス議会へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:53 UTC 版)
バーコウは、1987年イギリス総選挙でマザーウェル・サウス選挙区から、1992年イギリス総選挙ではブリストル・サウス選挙区から出馬して落選した後、1997年イギリス総選挙でバッキンガム選挙区から出馬して当選、庶民院議員となった。この際、同日に行われたバッキンガム選挙区とサリー・ヒース選挙区の候補選考会に出席するために1000ポンドでヘリコプターをチャーターした。どちらの選挙区も保守の牙城であり、当選確実な選挙区からの出馬を確保するためであったが、後に「かつて出費した中で最も意義ある1000ポンド」と語っている。その後、2001年イギリス総選挙と2005年イギリス総選挙でも再選している。 議員となったバーコウはたちまち頭角を現し、1999年6月には影の内閣の教育・雇用省スポークスマン、2000年7月には影の内閣の内務省スポークスマンとなった。2001年9月には保守党党首イアン・ダンカン・スミスにより影の内閣の大蔵首席政務次官 (Chief Secretary to the Treasury) に抜擢され、2002年7月まで同職を務めた。さらに2002年7月には影の内閣の労働・年金大臣に任命された。この際、バーコウは「この地位に至れるほど無情だったとは思っていない」と発言している。 2002年11月、労働党政府が未婚のカップル(同性・異性問わず)に子供の養子縁組を認める養子縁組法案を提出すると、保守党党首イアン・ダンカン・スミスは自由投票を認めず反対票を投じるよう登院厳重命令を出した。しかし、バーコウは自由投票であるべきだと主張して、登院厳重命令に造反して賛成票を投じ、影の内閣を辞任した。 2003年11月、新たに保守党党首となったマイケル・ハワードは、バーコウを影の内閣の国際開発担当大臣に任命した。しかし、税金・移民・イラク問題をめぐってハワードと衝突し、2004年9月に解任されている。一方、バーコウは旧植民地のミャンマーに関心を寄せ続けており、ミャンマーの民主化やロヒンギャの虐殺問題を頻繁に取り上げている。また、2006年にはトーリー改革グループ(英語版)の後援人となっている。 バーコウは、部族民に対する議会及び国民の意識を高めることを目的として設立され、30人以上の超党派の庶民院議員を擁する「部族民のための議員連盟」の会計を務めた。この議員連盟はILO条約169号「1989年原住民及び種族民条約」の批准を求めていたが、現在に至るまでイギリスは批准していない(イギリスのみならず、G7構成国はいずれも批准していない)。 この他、2010年にはレズビアン・ゲイ及びバイセクシャルの平等に対する支援の功績(特に2002年に党議拘束に反して養子縁組法に賛成したこと)により、ストーンウォール賞を受賞した。ストーンウォール(英語版)はバーコウに「レズビアン、ゲイおよびバイセクシャルの平等」について100パーセントのスコアを与えている。
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