政治記者の開始
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「サミュエル・アダムズ」の記事における「政治記者の開始」の解説
1748年1月、アダムズは父親の了解を得て、数人の友人と週刊の公的論評紙「ザ・パブリック・アドバタイザー」を創刊した。新聞の内容は専らホィッグ(愛国者)の立場に立った社説や論評を掲載した。紙面の表紙は木版画でフランス人の腕に紐で結ばれた鳥をブリタニアが放している絵が描かれた。紙面には「人類の権利と自由について論評しそれらを守る者ならば何にでも解放する」と書かれていた。 この出版によってアダムズはイギリス議会への反対意見と、イギリス議会がアメリカ植民地人の権利を制限することにおいてその限界を越えているという信念を説き始めた。その誌面に載せた文章では、扇動は人々の不安定な感情から起こっているとし、「それは弱く、熱を帯びており、病気なのだ。荒々しく不自然な活力なのだ。それ自体長続きはせず、しばしば不幸な患者を殺してしまう」と書いた。 アダムズは「市民は高い地位にある人に対する尊敬の念や指導者に対する賞賛を追い求めようとはすべきでない」と述べ、「これは多くの人を依存や服従の状態に追い込んでしまう」 とも述べた。アダムズは続けて「人々は規約を信じるべきであり、命令する指導者を信ずべきではない。それ故に、誰でも規約に反する政府の考えを注入しようとしたり、あるいはいかなる程度においても規約を超越したり弱めようという手段に目配せするような者は、忠義のある者ではない」 とした。 アダムズは、1691年のマサチューセッツ憲章が、イギリスの憲法が容認しているよりもはるかに多くの自由を社会が満喫できるように定めているという信念について強い確信を示した。アダムズは「我々の価値ある憲章はすべてのイギリス人の自由を保障している。それ以上にそこに住む通常の人々が持っていない付加的な特権をも我々は持っている」 と述べている。 この憲章を手引きとして、アダムズとその仲間は時の知事ウィリアム・シャーリーの罷免を要求した。彼等は、マサチューセッツ知事はこれまでしてきたような権力を持つべきではない、なぜならイギリス国王ですらそのような権力は持っていないと主張した。アダムズは「イギリス国王が貴族院議員と呼ばれる上院議員を『否定』も『止める』こともできないのであれば、植民地の知事は植民地にそのような影響を及ぼしてはならない」 と述べた。 アダムズは新しい自由はアメリカに渡った清教徒巡礼者(ピルグリム・ファーザーズ)から生まれた成果だと記した。アダムズは、人々が自身の幸福について知っており、それを改良するやり方が分かっているならば、自分たちの政体においてまた享受する自由において言葉に出せないぐらい幸福であるべきだと宣言した。 アダムズはその政治評論の中で、古代ローマや古代ギリシャに関する知識を使い、ニューイングランドがその清教徒の価値を捨ててしまえば、起こるであろうとものの例としてローマ帝国の衰退を上げている。ローマ帝国の絶頂期が清教徒のニューイングランド入植の日に重なるとした。 この政治的啓蒙の時代に、アダムズは個人的な悲劇に見舞われた。1748年3月にアダムズの父親が死亡した。原因は不明である。ボストン・インデペンデンス・アドバタイザー紙にその死亡記事が載った。 「 彼はこの地の人々の市民的また宗教的な興味を理解し追求する人であった。本当のニューイングランド人であり、正直な愛国者であった。 」 アダムズは家業の醸造所を継いだだけでなく、父親の農園についても、結婚したばかりの姉メアリーと町の市場の事務員をしていた弟のジョセフとで3分の1ずつを相続した。アダムズの父親は数年前に彼に貸し与えた1,000ポンドも「私の死後は息子に与えた負債から彼を放免するのが私の意志だ」と言って帳消しにした。アダムズは残っている息子としては年長であったので、パーチェイス通りの醸造所を含め、父親の事業を遣り繰りしていく責任を持たされた。 数年間の交際期間を経て、アダムズはエリザベス・チェクリーに求婚し、1749年10月17日にチェクリー牧師の家で結婚式を挙げた。翌年の9月に長子が生まれサミュエルと名付けたが、わずか18日で死んでしまった。1751年10月16日に再度息子が生まれ、この時もサミュエルと名付けた。今度の子は健康に問題は無かった。まる2年後にもう一人の息子ジョセフが生まれたが、生まれた次の日に死んだ。さらにその1年後、初めての女の子メアリーが生まれた。しかし、メアリーは3ヶ月と9日しか生きられなかった。18ヶ月後に次の娘ハンナが生まれ健康に育った。1757年7月、エリザベスは死産し、病気になった。エリザベスは1757年7月25日、32歳で亡くなった。 この時期に、アダムズは父の遺産の管理に失敗し、債権者が彼の家を差し押さえようとするまでにしてしまった。1760年、アダムズは破産し、土地の徴税係をやって生活の糧を稼ごうとした。しかし、その数年後、負債は8,000ポンドにもなった。アダムズは自身を「貧乏を誇りとし、自分自身を金を軽蔑し国のために捧げた古代ローマ人の一人」に擬えた。1761年、妻の死から4年経って、アダムズはエリザベス・ウェルと出会った。ウェルは家族付き合いをしている友人の娘であり、アダムズとは18歳も年が離れていたが、それでも交際を始めた。
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