政治評論家に転身
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1985年2月7日、竹下登が派中派の創政会を結成。田中は事態収拾に動くが、その渦中の2月27日の夕方、脳梗塞で倒れ東京逓信病院に担ぎこまれる。関東逓信病院のように脳神経外科が無かったものの、この病院への入院を主張したのは早坂だった。長女の眞紀子は、医者や看護師に共産党員や創価学会員が多いので外に病状がもれる心配があると反論するが、早坂がそれを押し切り入院させた。ところがその日のうちに病院の事務長が病院を所管する郵政省の担当課長に連絡したことが発覚。事務次官等を通じて、中曽根康弘首相の耳に入ることはすぐに知れた。早坂は同日の21時頃、田中派の左藤恵郵政大臣に「万端にわたって細心の注意をしていただきたい」と電話した。 田中の回復はほぼ絶望的で、病院側に無理やり頼んで、外部には軽い脳卒中と発表したが、所詮、当てもない時間稼ぎの苦肉の策であった。そうこうしている内に、田中の治療方法を巡って田中家と病院側、早坂の意見の食い違いが表面化し、早坂は田中家から切られる。同年6月22日、イトーピア平河町ビルの田中角栄事務所を閉鎖。同年7月9日、後藤田正晴や梶山静六らからの支援を得て麹町のマンションに事務所を開いた。 政治評論家に転身後、田中の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。テレビ番組では、報道番組の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。冠番組として、政財界要人との対談番組『茂三の渡る世間の裏話』(テレビ朝日)があり、30分の生放送で司会を務めた。番組ではCM入りのとき、お茶の時間があった。 半世紀以上、一日平均80本前後のタバコを吸い続け、2001年暮れ、左肺下部に直径1センチ弱のがんが発見された。2002年元旦からタバコを断ち、同年2月12日に手術。その後再発し、2004年6月20日、肺ガンのため死去した。73歳没。
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