政治諸問題の対処
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:57 UTC 版)
第1次伊藤内閣期、ボアソナードとの会見で外務大臣・井上馨の不平等条約改正に不備があり、治外法権撤廃の代わりに外国人被告の裁判には外国人裁判官を半数以上任用することを条件としていると知り、これが日本の立法権・司法権の独立を侵すものであるとして反発を覚える。条約改正外交への国民の反発から民情不安が醸成され、明治20年(1887年)12月に山縣有朋の提案で伊藤が保安条例による強権発動におよび、憲法制定のため努力したとしても政府と国会の衝突が不可避であり、憲法が空文化するとして辞表を提出する。これは憲法草案作成中の第1次伊藤内閣を危機にさらすこととなったため、伊藤は慰留に努めた。この条約改正問題は馨が明治20年(1887年)9月に辞職することで決着となる。 馨の後は大隈重信が外相となり、伊藤の首相辞任後に黒田清隆が樹立した黒田内閣の下で条約改正に当たったが、大隈の改正案も外国人判事任用で前の案と変わらない内容に反発して明治22年(1889年)9月に辞表を提出、伊藤に反対運動を起こすよう促す一方で、元田永孚・山田顕義・山縣有朋などを訪ねて改正中止の輪を拡大させた。同年10月に大隈が爆弾テロで重傷を負い、黒田が責任を取って辞職したことで条約改正は中止に決まった。 次の第1次山縣内閣では教育勅語の制定と予算案に関する対策を練り、明治23年(1890年)7月19日に枢密顧問官を兼任、11月29日に帝国議会が開会してからは憲法第67条の解釈(予算案の削除対象)を伊藤らと相談、翌明治24年(1891年)2月までに内容を纏めて提出、政府と議会の事前協議で予算案を確定してから予算案の増減を議会で決めるべきと上奏した。この方法を元にして3月に政府と議会が妥協して予算が成立、閉会を迎えたが、このころから持病の結核が悪化、伊藤や山縣に病状を訴え休職・辞職を願い出るようになっていた。 同年5月に松方正義が首相となり第1次松方内閣が成立したが、井上は同月に法制局長官を辞任(6月に文事秘書官長に転任)、松方とは協力せず傍観、明治25年(1892年)に松方に替わり伊藤が再度首相に在任した第2次伊藤内閣では政権に加わらなかったが、第4回帝国議会で政府と議会の対立が激しくなり予算の成立が難航した時、明治26年(1893年)に伊藤に明治天皇の詔勅を引き出させ事態を打開するよう働きかけ、2月10日の和協の詔勅による天皇の和睦呼びかけで政府と議会の和睦を果たし予算を成立させ、穏健に議会閉会へ持ち込んだ。
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