ニューファンドランドにおけるカトリック教徒解放
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「カトリック解放」の記事における「ニューファンドランドにおけるカトリック教徒解放」の解説
ニューファンドランドでのカトリック教徒の解放はアイルランドよりも進展が遅く、この問題は立法府の多方面にわたる争いに重大な影響を与えた。ニューファンドランドには、おおよそ最初の入植のときからかなりのカトリック教徒が住んでいたが、この理由は大部分がジョージ・カルバートによるものである。彼は最初のボルティモア男爵で、ニューファンドランドのアバロン半島に位置するアバロン州の創立所有者である。1625年にカトリック教に改宗してから、カルバートはアバロンに移住し、当時迫害を受けていた信仰を共にする者たちの避難所をその植民地に作ろうとした。しかしながら、最終的にニューファンドランドも、メリーランド州にあるカルバートの他の植民地のように彼らでは制御ができなくなってしまった。そうしてそこに住んでいたカトリック教徒たちも、イギリス統治下におかれた他の場所と本質的に変わらない宗教的制約を受けることになった。1770年から1800年において、ニューファンドランドの知事はカトリック教徒にかけられている制約を緩めようとし、フランスやアイルランドの宗教施設を設立することを許可した。1786年、ウィリアム・ヘンリー王子(後の国王ウィリアム4世)はセントジョンズを訪れ、「ここには一人のプロテスタントに対して10人のカトリック教徒がいる」と記した。また、王子はこの相当な多数派に対して、早期の法令緩和に逆らう方向に働きかけた。 1829年5月、カトリック教徒解放の知らせがニューファンドランドに届くと、5月21日を記念日とする宣言がなされた。セントジョンズではパレードと大規模な感謝祭が礼拝堂で開かれ、アイルランド慈善協会やカトリックの職工協会が参加した。港の大型船は旗を掲げ、礼砲を打ち上げた。 多くの人々は、もうカトリック教徒が公職に就くことを邪魔されることはなく、そしてプロテスタントたちと同等にすごすことができると信じていた。しかし1829年12月17日、司法長官と最高裁判官は、カトリック教徒救済法はニューファンドランドに適用されないと判決を下した。その理由は、植民地であり、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部ではないニューファンドランドで、それまで適用されたこともなかった救済法によって、全ての法律が破棄されてしまうため、ということであった。知事たちの権限は国王の大権によって認められ、イギリス議会の法律制定法によるものではなかった。そのためニューファンドランドでは、残っていたカトリック教徒に対する現地の差別規制をそのままにしておく他なかったのである。 1829年12月28日、セントジョンズにあるカトリック礼拝堂はカトリック教徒解放に向けた会議でごった返した。ニューファンドランドにおけるカトリック教徒の、ブリテンの臣民としての全権利を求める請願は、オコンネルからイギリス議会へ送られた。イギリス政府がカトリック教徒解放を認めなかったことで、ニューファンドランドの改革者たちによる、植民地立法府に対するせっつくような要求が繰り返されることとなった。これは以前のどんな事件や規制よりも多く続いた。ロンドンでは急を要した対応は全くとられなかったが、ニューファンドランドの問題は、その時にはもうイギリス植民省の目前に迫っていた。1832年の5月になって初めて、イギリスの植民地長官は、新たな権限がコクラン知事に付与され、ニューファンドランドのカトリック教徒に対するあらゆる不利益を取り除くことを正式に発表した。
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