ニューファンドランドの争奪とは? わかりやすく解説

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ニューファンドランドの争奪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 14:24 UTC 版)

セントジョンズの戦い」の記事における「ニューファンドランドの争奪」の解説

アン女王戦争勃発前の一時期ニューファンドランドフランスイギリス当時イングランド)が争奪繰り返していた。1690年代ウィリアム王戦争時期行われたフランス奇襲は、イングランド入植地を完全に破壊した。その中には、この島の主要な港であるセントジョンズ含まれていた。イングランド東側セントジョンズ要塞築いたが、フランス南側抑えていた。 1702年イングランド海軍提督ジョン・リークが、フランス植民地奇襲したが、プレザンスだけは見合わせた。ここの港にフランス軍艦発見したからだった。1704年から1705年にかけての冬、プレザンス総督のダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスが、ミクマク族ケベックフランス系入植者との力を借りてセントジョンズの包囲戦出た。町を焼き要塞攻め落とそうとしたが、失敗終わったその後1708年押し詰まって、スーベルカスの後任であるフィリップ・パストゥール・デ・コステベルは、またもセントジョンズ急襲できる機会恵まれたフリゲート艦ヴィーナス始め数多くフランス艦と、私掠船が何艘か、西インド諸島からやって来て停泊していたからだ。コステベルは、この機を逃す手はない考え副官のジョゼフ・ド・モンベトン・ド・ブルイヨン・ド・サントビデを送りこみ、ヴィーナス艦長、ルイ・ドゥニ・ド・ラ・ロンドの助力得て陸路でのセントジョンズ急襲のために、人手借りることにした。艦隊から召集した兵員と、入植地住民と、ミクマク族とから計164名を引き連れて、サントビデは1708年12月14日セントジョンズ出発した1705年から1706年の冬、かつてセントジョンズ統治していたイングランド海軍少佐トマス・ロイドは、再びこの地の司令官戻っていた。ロイドは、1696年にも同じ部署就いたことがあったが、ジョン・ムーディの悪だくみでこの地位追われていた。また、暴力的怒りっぽい気質災いしたと、入植民たちが噂していたのを知った本国に一旦戻った時は、様々な非難一掃し、かつて自分追放したジョン・ムーディが、1705年要塞防御貢献していたにも関わらずセントジョンズ責任者返り咲いた1708年まで、さして大きな事件もないままセントジョンズ統治し1707年フランス入植地への遠征参加し漁師たちの一時的な入植地荒らしまくった。また民兵隊を組織し人口のほとんどが避難できるであろう要塞築きフランス先住民奇襲絶えないため、入植者説得して要塞の中で冬を越させることにした。

※この「ニューファンドランドの争奪」の解説は、「セントジョンズの戦い」の解説の一部です。
「ニューファンドランドの争奪」を含む「セントジョンズの戦い」の記事については、「セントジョンズの戦い」の概要を参照ください。

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