ニューファンドランドとカリブ海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:25 UTC 版)
「バーソロミュー・ロバーツ」の記事における「ニューファンドランドとカリブ海」の解説
1720年6月、ニューファンドランド島に到着した一味は蛮行の限りを尽くし、トレパシーの港に碇泊していた22隻の船のうち1隻を除いて全て焼き払い、入植者たちの漁場や船着場などを徹底的に破壊した。これらの行為には何の意味もなかったという。拿捕したギャレー船に砲16門を積み込んで船隊に加え、ニューファンドランド沿岸を航海した一味は、遭遇した10隻のフランス船をことごとく破壊した。さらに砲26門で武装したフランス船を拿捕し、ロバーツはこれを旗艦としてフォーチュン号と名付けた。トレパシー港のギャレー船はフランス人たちに与えた。フォーチュン号とスループ船で船隊を組んで航海した一味は、途中でリチャード号、ウィリング・マインド号、エクスペディション号を拿捕し、乗組員を増強した。ロンドンの豪華船サミュエル号を拿捕したさい、一味は船客たちを手荒に扱い、カトラスや斧で船荷を破壊し、入用でない物は海に投げ捨てた。サミュエル号からは9000ポンド相当の物資を掠奪したという。サミュエル号の掠奪の後、一味はボストンへ向かう途中のスノー船を拿捕し、船長のボウルズに残酷な仕打ちを加えた。ボウルズがバルバドス島で一味を攻撃した討伐船の船長と同じ、ブリストル出身だったからである。 7月16日、一味は2隻の船を掠奪したのち解放した。さらに翌日、ブリストルから航海してきたリチャーズ船長のスノー船フェニックス号を拿捕し、ボウルズ船長と同様リチャーズを虐待した。さらにトマス船長のブリガンティン船を拿捕し、乗組員を全員捕虜にしたうえで船を沈めてしまった。 その後、ニューファンドランドを去った一味は西インド諸島に進路を取り、セントクリストファー島へ向かった。ロバーツの一味は食糧が不足していたが、この島の総督は一切の援助を拒否した。これに気を悪くした一味は腹いせに街に火を放ち、港に碇泊していた2隻の船を焼き払ってしまった。一味はここからサン・バルテルミー島に向かったが、ここでは総督や島民たちからの歓待を受けた。補給を終えた一味はギニアに進路を取り、途中でマルティニーク島からやって来たフランス船を拿捕した。ロバーツはこの船をロイヤル・フォーチュン号と名付けて旗艦とした。 ギニアに向かう途中、船の手入れのためヴェルデ岬に立ち寄ろうとしたが、目的地より風下に流されてしまい、西インド諸島へ戻ることもできなくなってしまった。一味はしばらく漂流し、病気になる者で溢れ、餓死寸前まで追い込まれたが、運よくスリナム海岸マロニ河口沖に到着した。水を補給した一味はバルバドスへ進路を取り、2隻の船を拿捕した。1隻の船長は海賊の掟に署名して後に僚船のレンジャー号の船長となった。トバゴ島で補給した一味は、碇泊していたカリアク島にて2隻の武装スループ船がロバーツ一味を追跡しているという噂を耳にした。ロバーツはマルティニーク島総督に復讐するため、島へ向けて出帆した。マルティニーク島に到着したロバーツは偽の旗を掲げ、取り引きをすると見せかけて商人たちを捕えた。そして彼らを脅迫して金を奪い、捕虜たちを島に帰すための1隻を残して20隻もの船を焼き払ってしまった。 ドミニカ島へ向かった一味は、オランダの貿易船とロードアイランドのブリガンティン船を拿捕した。この2隻を伴ったまま航海し、グアダルーペ島でスループ船とフライボートを拿捕したうえでスループ船は掠奪後焼き払った。その後、イスパニョーラ島でロイヤル・フォーチュン号とブリガンティン船を整備していた一味だったが、2隻のスループ船が彼らを訪ねてきた。スループ船の船長たちはそれぞれポーターとタッカーマンといい、ロバーツのところにやって来て、海賊稼業についての伝授と必要な物資を援助してほしいと言い出した。ロバーツは彼らの無遠慮なところを気に入り、稼業に必要な物資を与えた上で数日間楽しく過ごした。彼らと別れるさいにはその稼業の成功を祈ったという。 ロバーツは自分たちのスループ船を焼き払い、ブリガンティン船をグッド・フォーチュン号と命名し、ロイヤル・フォーチュン号と船隊を組んだ。多くのフランス船から食料を掠奪したあと、一味はギニアへ向かうことにしたが、いさかいが原因でトマス・アンスティスが指揮するグッド・フォーチュン号が離脱してしまった。
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