シチリア戦~その後の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:31 UTC 版)
「ピュロス」の記事における「シチリア戦~その後の戦い」の解説
シチリアを版図にすることを目論んだピュロスは、カルタゴ側で最大の要塞都市エリュクスを陥落させる。これに対しカルタゴは賠償金の支払いと軍船の提供を提案したが、自分の帝国を築くことが目的のピュロスはカルタゴがシチリアから完全に手を引くことを譲らなかった。その後もカルタゴを破ったものの、専制的に振舞ったためシチリア諸都市の反感を買い、諸都市からの支援が受けられずタラスへの撤退を余儀なくされた。 その頃には再生力の強いローマ軍はすっかり勢いを取り戻しており、紀元前275年にピュロスはベネウェントゥムの戦いで再度ローマ軍と戦うも敗北し、エピロスへと撤退した。帰国すると以前の要請を受けてマケドニアに攻め入り、マケドニア王アンティゴノス2世を一蹴して追い出し再びマケドニア王位に付く。 追放されたスパルタの王族クレオニュモス(英語版)から援軍要請が入ると、マケドニアを息子アレクサンドロス2世に任せて自身はペロポネソス半島へ遠征する。しかし、その留守を突かれてアンティゴノス2世にマケドニアを脅かされ、自身もスパルタ軍に苦しめられる。やがて、スパルタ王アレウス1世の帰還、コリントスからの援軍の到着などで劣勢となり撤退した。次にアルゴスの政争に介入し、その市街戦の最中に名もない女性に瓦を落とされ気絶したところを殺された。また、一説によると使用人に毒殺されたともされる。
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