シチリア島征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:50 UTC 版)
「イタリアのイスラム教」の記事における「シチリア島征服」の解説
詳細は「シチリア首長国」を参照 ビザンティン帝国に対し反旗を翻したシチリア島の総督はムスリム(ヨーロッパの過去の文書ではサラセン人と呼ばれた)に助けを求めた。度重なる軍の反乱を収束させるため、イフリーキヤのアグラブ朝総督は、アサド・イブン・アル=フラート(英語版)らに率いられたアラビア人、ベルベル人、アンダルス人の軍を派遣して827年、830年、875年にシチリア島を征服した。パレルモが831年に陥落した後、843年にメッシーナが陥落、878年にはシラクサも陥落した。902年、イフリーキヤの総督自身が軍を率いてシチリア島へと進軍、902年にタオルミーナを支配下においた。イタリア半島本土のレッジョ・カラブリアも918年に陥落、964年にはビザンティン帝国の最後の拠点となっていたロメッタが陥落した。 ムスリムによる支配の下、シチリア島の農業は繁栄期を迎え、農産物の輸出が盛んとなった。美術や工芸がシチリア島の各都市で栄えた。シチリア島内でムスリムが首府を置いていたパレルモには当時30万人の人々が住んでおり、この数字は当時のドイツの都市の全人口よりも大きかった。ムスリムにより征服された地方の住民は西シチリア島のカトリック教会を信仰するシチリア人と、主に島東部に住みギリシア語を話す一部のキリスト教徒がいたが、これ以外に相当数のユダヤ人が居住していた。これらの被征服民はムスリム支配下でもズィンミーとしてある程度の信教の自由を保証されていた。ただし、ムスリムとズィンミーの間にいくつかの区別があった。ズィンミーはジズヤ(人頭税)やハラージュ(土地税)を支払う必要があったが、ムスリムが支払う必要のある税(ザカート、喜捨)の支払いは免除されていた。アラブ人による支配下では、人頭税を支払う民の間には複数の区分があったが、どの区分にも共通していたのは、外国からの侵略や内部反乱に対する保護を受ける代わりに、ムスリムによる支配への服従の証として人頭税を支払うという点であった。征服された民は、イスラム教へ改宗しさえすれば、人頭税の支払いをせずに済む。真率な宗教的信念か社会的強制かはともかく、シチリア島の原住民の大多数がイスラム教へと改宗した。しかし、イスラム教国家による100年間の統治の後ですら、数多くのギリシア語を話すキリスト教徒コミュニティが特にシチリア島北東部においてズィンミーとして存続していた。これは、共存を許容するジズヤ制度によるところが大であった。この被征服民との共存関係は、特に1189年のグリエルモ2世の死に続くシチリア島の再征服以降、崩壊することとなる。11世紀半ばまでは、ムスリムがシチリア島の住民の多数派を形成していた。
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