シチリア王即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 08:29 UTC 版)
「ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「シチリア王即位」の解説
1191年4月、ハインリヒとコンスタンツェはローマでローマ教皇ケレスティヌス3世からローマ皇帝・皇妃に戴冠される。イタリアを南下したハインリヒはナポリの包囲を開始するが、ハインリヒの軍は疫病に罹り、重大な被害を受ける。一方、ローマ帝国ではハインリヒ獅子公が再び反乱を起こしており、ハインリヒは包囲を解いて帰国せざるをえなかった。サレルノの宮廷に残されたコンスタンツェは、サレルノ市民の手引きによってタンクレーディに引き渡され、コンスタンツェはケレスティヌスの仲介によって解放される。ケレスティヌスはタンクレーディのシチリア王位を認め、またローマ帝国の反シュタウフェン家陣営も勢いを盛り返していた。 この矢先、ハインリヒは思わぬ幸運にめぐり合う。反シュタウフェン陣営の有力な支持者であるイングランド王リチャード1世が、第3回十字軍の帰途でオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、トリフェルス城(英語版)に監禁される事件が起きる。リチャードの身柄はハインリヒの元に引き渡され、ハインリヒは銀150,000マルクと引き換えにリチャードを釈放した。この事件によって反シュタウフェン陣営は有力な後ろ盾を失っただけでなく、ハインリヒは再度の南イタリア遠征に必要な軍費を調達することができた。 1194年1月にハインリヒは北イタリアのコムーネと協定を結んで通行許可を得、同年4月にはハインリヒ獅子公と講和する。同年2月にシチリアではタンクレーディが没し、彼の幼少の子グリエルモ3世がシチリア王位を継承していた。ピサ、ジェノヴァの協力を得て、ハインリヒは5月12日に南イタリア遠征に向かう。この遠征の途上でコンスタンツェの妊娠が発覚し、彼女は別の進路を通って移動した。 ハインリヒはシチリア王位と引き換えに、グリエルモ3世をレッチェ伯の地位にとどめることを約束し、1194年9月20日にパレルモは無血開城した。12月25日にハインリヒはシチリア王に即位、即位に際して数百人のシチリア貴族が処刑・投獄され、グリエルモ3世は視力を奪われた上で幽閉され、グリエルモ3世の母親は国外に追放されたまたタンクレーディの墓が暴かれ、民衆の前で遺体が纏っていた王衣が脱がされた上、遺体の首が切断された。
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