王国の近代化
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1914年2月11日、トゥトブ王はイギリスの監視下のもとガントクで崩御、息子のシケオン・トゥルク・ナムゲルが王位を継承した。シケオン・トゥルク王はオックスフォード大学に留学していたこともあり、封建的制度の廃止を決意していたが、同年に崩御し、弟のタシ・ナムゲルが王位を継承した。 タシ王は様々な分野でシッキムの近代化を推進した。まず、1916年にはそれまでカジス(地主や行政長官を担う階層)が手中にしていた司法権をはく奪、独立した裁判所を設立した。また、強制労働の慣習を廃止し、土地改革・税制改革を敢行した。これらの改革は、シッキムにめざましい経済的・社会的発展をもたらすことになる。 1947年、インド連邦が独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にはシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定され、参事院(State Council、立法府に相当)と行政参事会(Executive Council、内閣に相当)の設立が決定した。 しかし、王国を支持するブティヤ・レプチャ・チベット系の人口が25%に対し、労働力として流入していたネパール系が75%を占める人口比率では、民主化が実現した場合はネパール系が主導権を掌握することが王国内で危惧されたことから、シッキム王国政府は参事院議席のコミュナル別割当を実施した。すなわち全17議席のうち6議席を「ブティヤ・レプチャ系」に、6議席を「ネパール系」に分配してこれを選挙議席とし、残る5議席を国王による親任と定めた。ネパール系住民を主体とする政党は不平等な選挙制度に不満を抱いたが、タシ王は親インド姿勢をとっていたため、インドも彼の治世においてはコミュナル選挙制度を支持していた。
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