王国の近代化とは? わかりやすく解説

王国の近代化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)

シッキム王国」の記事における「王国の近代化」の解説

1914年2月11日、トゥトブ王はイギリス監視下のもとガントク崩御息子シケオン・トゥルク・ナムゲル王位継承した。シケオン・トゥルク王はオックスフォード大学留学していたこともあり、封建的制度の廃止決意していたが、同年崩御し、弟のタシ・ナムゲル王位継承したタシ王は様々な分野シッキムの近代化推進した。まず、1916年にはそれまでカジス(地主や行長官を担う階層)が手中にしていた司法権はく奪独立した裁判所設立したまた、強制労働慣習廃止し土地改革税制改革敢行した。これらの改革は、シッキムめざましい経済的社会的発展もたらすことになる。 1947年インド連邦独立すると、シッキムにおけるイギリス地位インド継承することとなった1950年にはシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交防衛通信インド委ねる保護国になった。また同条約に基づきシッキム王国民主化進めることが規定され参事院State Council立法府に相当)と行政参事会Executive Council内閣に相当)の設立決定した。 しかし、王国支持するブティヤ・レプチャ・チベット系の人口25%対し労働力として流入していたネパール系が75%を占め人口比率では、民主化実現した場合ネパール系が主導権掌握することが王国内で危惧されたことから、シッキム王国政府参事院議席のコミュナル別割当実施した。すなわち全17議席のうち6議席を「ブティヤ・レプチャ系」に、6議席を「ネパール系」に分配してこれを選挙議席とし、残る5議席国王による親任定めたネパール住民主体とする政党不平等な選挙制度に不満を抱いたが、タシ王は親インド姿勢とっていたため、インド彼の治世においてはコミュナル選挙制度支持していた。

※この「王国の近代化」の解説は、「シッキム王国」の解説の一部です。
「王国の近代化」を含む「シッキム王国」の記事については、「シッキム王国」の概要を参照ください。

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