王国の黎明期とは? わかりやすく解説

王国の黎明期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:12 UTC 版)

ポーランド」の記事における「王国の黎明期」の解説

966年ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目族長ミェシュコ近隣ヴィスワ諸部族Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教改宗しミェシュコ1世公となり、国家ポーランド公国として西欧キリスト教世界認知された。 992年ミェシュコ1世息子ボレスワフ1世後を継ぐと、この新しポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土画定し、中央政府権力強め武力によって国家統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世ハインリヒ2世神聖ローマ帝国クヌーズ2世デンマーク積極的に外交した。1000年オットー3世ポーランド公国首都ポズナニ近郊グニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世会談し、そこに大司教座を置くことに合意したポーランド大司教座以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代製作されたものであるボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝権威受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年東へ軍を進めてキエフ・ルーシ攻略した同年今度は西の神聖ローマ帝国領内侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和en)によりマイセンポーランド語でミシニャ)とラウジッツポーランド語ウジツェ)を獲得その結果中欧広大な領土確保したその間1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世イングランド遠征援助をするため、自らの軍の一部貸し出し北海帝国建設援助した1020年にはクラクフヴァヴェル大聖堂着工開始されとされる1025年ボレスワフ1世死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国王国として認知されポーランド王国となり、国境確定した王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランドチェコモラヴィア地方スロヴァキアのほぼ全域オーストリア一部ハンガリー一部ドイツラウジッツ地方ウクライナの「赤ルーシ地方となる。ボレスワフ1世治めた属領含めてすべてを合わせる西ポモージェ地方含めた現在のポーランドのほぼ全域チェコのほぼ全域スロヴァキアのほぼ全域オーストリア一部ハンガリー一部ウクライナ西部赤ルーシ地方ベラルーシ白ルーシ)のブレスト地方ドイツラウジッツ地方マイセン地方となる。 ポーランド王国認知されてまもなくボレスワフ1世没したため、最初戴冠式受けたのは息子ミェシュコ2世である。しかし、王国内の各地諸侯王権これ以上拡大危惧抱いた1034年ミェシュコ2世謎の死遂げたその後数年間は政治的な混乱の時代続いた1038年時のポーランドカジミェシュ1世政治滞っていた首都ポズナニ離れクラクフへと事実上遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国事実上君主であった公は、混乱収拾して王国を再びまとめ上げたまた、公はヴァヴェル大聖堂大改築し、クラクフヴロツワフ司教座置いた。その長男1058年に公位を継いだボレスワフ2世神聖ローマ皇帝ローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し1076年ポーランド王位就いた

※この「王国の黎明期」の解説は、「ポーランド」の解説の一部です。
「王国の黎明期」を含む「ポーランド」の記事については、「ポーランド」の概要を参照ください。

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