王国の藩王国化とイギリスによる併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/20 10:00 UTC 版)
「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事における「王国の藩王国化とイギリスによる併合」の解説
1787年、トゥラジャージー2世の死後、その養子であるサラボージー2世が王位を継承し、先王の弟アマル・シングがその摂政となった。 1792年7月12日、アマル・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、イギリス軍の駐留費用の負担、外交権の放棄などを定められ、実質的に保護下に置かれることとなった(タンジャーヴール藩王国)。また、翌年に彼はイギリスのマドラス政庁から正式な王と認められた。 1798年、サラボージー2世が王位を主張したことから問題が発生し、同年6月29日にアマル・シングは退位し、サラボージー2世が復位した。 サラボージー2世の治世はイギリスの保護下の下、長く平和が続き、マイソール戦争の戦禍は徐々に回復していった。また、その治世はタンジャーヴールを中心とした地域で文化が非常に発展した時代でもあった。 1855年10月29日、サラボージー2世の息子シヴァージーは息子なくして死亡し、タンジャーヴール藩王国は「失権の原理」により、イギリス領へと併合された。
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