王国の苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/20 10:00 UTC 版)
「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事における「王国の苦難」の解説
1684年あるいは1685年、ヴャンコージーの死後(あるいは退位後)、シャーフージーがその王位を継承した。 シャーフージーの治世、1686年に名目上の忠誠を誓っていたビジャープル王国がムガル帝国に滅ぼされた。また、1689年にマラーター王サンバージーが殺害されると、弟のラージャーラームはシェンジへと逃げた。 1687年、ムガル帝国にバンガロール一帯を奪われ、のちにこの地はマイソール王国にジャーギール(封土)として与えられた。とはいえ、1698年、ムガル軍がシェンジを落とし、デカンへと主力が戻ると、シャーフージーは領土の奪還に成功した。 1712年、弟のサラボージーが王位を継承したのち、かねてからのマドゥライ・ナーヤカ朝やラームナードゥのパーライヤッカーラルとの領土争いは激しくなり、マラヴァ継承戦争が勃発するとこれに介入した。 その弟トゥッコージーの治世、パーライヤッカーラルの反乱やカルナータカ太守に脅かされていたマドゥライ・ナーヤカ朝の女王ミーナークシの援助を行った。だが、1736年にチャンダー・サーヒブはもう一度マドゥライ・ナーヤカ朝の領土に侵攻し、その首都ティルチラーパッリは落とされ、王朝は滅ぼされてしまった。
※この「王国の苦難」の解説は、「タンジャーヴール・マラーター王国」の解説の一部です。
「王国の苦難」を含む「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事については、「タンジャーヴール・マラーター王国」の概要を参照ください。
- 王国の苦難のページへのリンク