王国の終焉、ローマ帝国へ編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:23 UTC 版)
「コンマゲネ」の記事における「王国の終焉、ローマ帝国へ編入」の解説
17年にアンティオコス3世が死去した際に、ローマ皇帝ティベリウスによってコンマゲネはシリア属州へ編入されたが、ティベリウスの後継皇帝となったカリグラが38年にコンマゲネ王国を復活させて、アンティオコス3世の息子アンティオコス4世を王位につけ、キリキアを含む広大地域の統治を委任した。 69年にローマ皇帝となったウェスパシアヌスは、72年に再度コンマゲネを今度は属州化(その後、シリア属州へ編入)して、コンマゲネ王国としての独立の歴史に終止符が打たれた。なお、国王アンティオコス4世は72歳であったと伝わっている。 コンマゲネの王族はギリシアとイタリアに分かれて住み、碑文等でも裕福であった様子が伺える。これらは「王国の王国」として知られることとなった。アンティオコス4世の孫に当るガイウス・ユリウス・アンティオクス・ピロパップスはローマの元老院議員となり、ローマ皇帝ハドリアヌスがコンスルとなった翌年(109年)に同じくコンスルに就任した。 コンマゲネを征服したローマは代々の国王が守護していたネムルト山の墳墓を打ち捨てて、ローマ第17軍団(en)は財宝を奪い、山にあった多くの材木を収奪した。「Karakush」と名付けられた鷲(または黒鳥)の紋様を象った女性の墓碑も同様にローマ軍による略奪にあった。
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