王国の衰退と消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
「ヒッタイトの歴史」の記事における「王国の衰退と消滅」の解説
この時から、アッシリアの台頭によりヒッタイトの力は再び凋落していった。ムワタリがエジプト軍に専念している間に、アッシリア人はミタンニを征服する機会を掴み、さらにユーフラテスへ拡大した。ヒッタイトの交易路に対して、アッシリアはかつてのエジプトと同じくらい強大な脅威として台頭してきた。ムワタリの息子ウルヒ・テシュプ(Urhi-Teshub)がムルシリ3世として王位に就き7年間にわたって王として支配したが、短期間の内戦の末に叔父のハットゥシリ3世が簒奪した。アッシリアによる国境への侵入が増加している事に対応して、ハットゥシリ3世はラムセス2世との和平・同盟を締結し、娘をファラオに嫁がせた。「カデシュの和約」(en:Egyptian–Hittite peace treaty)は、完全な形で現存する歴史上最古の条約の一つであり、両者の国境線をカナン(Canaan)に定め、ラムセス治世の21年目(紀元前約1258年)に署名された。この条約の約定の中にはヒッタイトの王女の内の一人をファラオ・ラムセスに嫁がせるという項目が含まれていた。 ハットゥシリの息子トゥドハリヤ4世は、アッシリアをシリア域外にて食い止め、さらに一時はキプロス諸島を編入しさえもしたが、ヒッタイトにとっては彼が最後の強い王となった。最後の王、シュッピルリウマ2世も、キプロス沖合における海の民との海戦を含めていくつかの勝利を挙げた。しかし、その勝利は小さすぎ、また遅すぎた。海の民は、地中海の海岸沿いに既に侵攻を始めており、エーゲ海を初めとしてフィリスティア(英語版)に向かって進軍を続け、彼らの望む交易路を切り開くべくキリキア(旧キズワトナ(英語版))およびキプロスをヒッタイトから切り離した。これによりヒッタイト本国は全ての方向からの攻撃に対して脆弱となり、紀元前1180年ごろにハットゥシャは全焼し、カスカ(英語版)(Kaskas)、フリギア(Phrygia)、ブリゲス(英語版)(Bryges)の連合した猛攻にさらされた。これにより、ヒッタイト王国は歴史記録から姿を消した。
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