テアーノの握手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
ガリバルディの成功はカヴールらサルデーニャの穏健派にとって、まったくの悪夢だった。元々カヴールは南部を含んだ半島統一は考えておらず、北イタリア王国の樹立が目標だったが、民主派に主導権を奪われることを恐れた彼は方針を転換した。シチリアの併合を画策するが、ガリバルディの反対もあって成功せず、次いでナポリに工作員を送り込み、ガリバルディの到着前に穏健派による蜂起を画策したが、これも失敗した。 一方、容易に両シチリア王国の首都を奪取したガリバルディの軍隊は3 - 4万人となり南部軍団(イタリア語版)(Esercito Meridionale)を称していた。しかし、ナポリ政府軍は5万の兵を持ってヴォルトゥルノ川に沿って戦線を維持しており、ガリバルディの南部軍団はカプアとガエータの要塞を攻略することができなかった。 ガリバルディは教皇ピウス9世の政治的意向を無視し「イタリア王国樹立の宣言」をローマから発する意図を表明していた。カトリック教会の支配領域の危機を感じた教皇ピウス9世はガリバルディを支持する者全てを破門に処すると脅した。ガリバルディによるローマ攻撃を恐れた世界のカトリックは教皇軍に資金と義勇兵を送り、亡命フランス人のルイ・ラモリシエール(英語版)が軍の指揮を執った。 カヴールはガリバルディを抑えるべく、サルデーニャ軍の南部派遣を決めたが、そのためには半島中央部にまたがる教皇国家を通過せねばならなかった。半島のこう着状態の決着はナポレオン3世に委ねられた。もしも、フランス皇帝がガリバルディの思いのままにさせれば、教皇の俗界主権は終焉し、ローマはイタリアの首都となる。だが、ナポレオン3世はカヴールと協議を行い、ローマと「聖ペテロの伝統」には手を付けないことを条件にナポリ、ウルビーノその他の地域をサルデーニャ領とすることで調整した。 この様な状況下で、ファンティとチャルディーニ率いるサルデーニャ軍2個軍団が教皇国家へ侵入し、その目標はローマではなくナポリであった。ラモリシエールの教皇軍はチャルディーニ軍団と対したが、9月18日にカステルフィダルトの戦いで撃破されてアンコーナの要塞に包囲され、9月29日に降伏した。10月9日にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が到着し、全軍の指揮を取った。彼に対抗しうる教皇軍はもはや存在せず、サルデーニャ軍は抵抗を受けることなく南下する。 10月、サルデーニャ議会はシチリアと南イタリアの併合を決議した。これに対し、シチリアでは議会が招集され、ナポリでもマッツィーニら民主派が集結して議会召集と憲法制定を準備していた。だが、穏健派がサルデーニャとの合併を問う住民投票を強く要求し、ガリバルディは同意せざる得なくなる。ナポリとシチリアで実施された住民投票の結果、圧倒的多数でサルデーニャ王国との合併が決まった。11月にはサルデーニャ軍占領下のマルケとウルビーノでも住民投票が行われ、サルデーニャ王国との合併が決められている。 ガリバルディは出身地のニースをフランスに割譲した現実主義者のカヴールを信用していなかったが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の指揮権を受け入れた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がセッサ・アウルンカに入城したとき、ガリバルディは国王に対して自らの独裁権の返上を知らせた。10月25日にガリバルディはテアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を迎え、この場面は「テアーノの握手(イタリア語版)」としてイタリアの愛国的神話となる。 ガリバルディがヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に征服した南イタリアを進んで献上した美談とされるが、実際の会見は感動的なものではなく、サルデーニャ軍の将校は冷淡に接し、国王はガリバルディに正規軍に従うよう手短に命じただけであり、ガリバルディは国王への忠誠ではなく併合を決めたナポリとシチリアの住民投票の結果を受けてこれに従ったものであった。11月7日、ガリバルディは国王と並んでナポリに入城した。彼は半島統一の残りの事業をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に委ね、自らはカプレーラ島に引退した。 サルデーニャ軍の進撃によってフランチェスコ2世は川沿いの防衛線を放棄せざる得なくなり、最終的に彼は精鋭部隊とともにガエータの要塞に立て籠もった。気丈な若い王妃マリーア・ソフィアに支えられたフランチェスコ2世は奮起し、3か月に渡り頑強に抵抗した。だが、欧州の同盟諸国は援助を拒否し、食糧、弾薬が底をつき始め、その上に疫病まで起こったため、守備兵は降伏を余儀なくされた。それにも関わらず、フランチェスコ2世に忠実なナポリ人の幾つかの集団が、貧弱な武器をもって、なお数年間、イタリア政府に対して抵抗を続けることになる(後述南部の反乱)。 ガエータの陥落により、統一運動の目標はほとんど達成され、ローマとヴェネトのみが残された。1861年2月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノで第8期サルデーニャ議会を召集した。3月14日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し、3月27日にはローマを首都と宣言した(依然として王国の統治下には入っていなかったが)。この3か月後、生涯の事業をほぼ終えたカヴールが世を去った。彼の最後の言葉は「イタリアは誕生した。もう仕事はない」である。
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