1860年の進軍
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「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「1860年の進軍」の解説
1860年初頭、両シチリア王国のメッシーナ、パレルモで起きた反乱は、ガリバルディに活躍の機会を与えた。彼は約1000人の義勇兵を集め、千人隊(または、皆に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」と呼ばれる)を結成した。2隻の船に分乗してジェノヴァを出発した彼らは5月11日、シチリア島の最西端のマルサラに上陸した。 各地の反乱軍を取り込んで軍の規模を拡大させながら、5月13日にはカラタフィーミで敵軍を撃退した。ガリバルディは、そこで自分がシチリアの支配者であることを宣言した。5月27日には、島の首都パレルモへと進軍し、包囲攻撃を開始した。彼が駐屯軍に対して反抗していた住民の支持を取り付けたことは、この戦いを有利に進めることのできた一つの原因といえよう。しかし街が陥落するよりも前、援軍の到着により街はほぼ壊滅状態となった。そのときイギリス海軍提督が介入し、またナポリ王国の艦隊が町を包囲することによって停戦への流れとなった。 ガリバルディはめざましい勝利と世界的な名声、イタリア中の賛美とを一度に手に入れた。6週間後には島の東、メッシーナへと進軍した。7月末には敵対勢力に残されたのは1つの砦のみとなった。 シチリア島での進軍を終え、義勇軍はナポリ艦隊の勢力下であるメッシーナ海峡を渡った。ガリバルディの進軍は地元のレジスタンスに歓迎され、9月7日にはナポリへと入城することができた。しかし彼はナポリを支配するブルボン家の王フランチェスコ2世の身柄は保証した。シチリア軍のほとんどは依然として王党派であり、シチリアからナポリにかけて各地で吸収したガリバルディの義勇軍も25,000人に膨れ上がっていたため、彼らの意向を無視できなかったからである。10月1日から2日にかけて、ヴォルトゥルノでの主要な戦い(英語版)が勃発したが、戦闘の大部分はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世指揮下のサルデーニャ軍に任された。 ガリバルディはサルデーニャ王国の首相カヴールに対して、深い嫌悪感を抱いていた。彼はカヴールの実用主義的、現実主義的政策を信用せず、また自らの生まれ故郷ニースをフランスに割譲した外交政策に対して、個人的な恨みすら抱いていた。しかし一方で、ガリバルディはサルデーニャによるイタリア統一に魅かれ始めていた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との有名な会談(「テアーノの握手(イタリア語版)」として有名、1860年10月26日)ではガリバルディはエマヌエーレ2世に対し、イタリアの王として挨拶し、握手した。そして全軍に対して「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。彼は次の日には一言「陛下、あなたに従います」とだけ言葉を残し、軍の職を辞した。彼が占領した地域は全てヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上され、イタリア統一は大きな軍事的衝突を回避する形で成就した。11月7日には彼の働きに対するどんな見返りも断りつつ、カプレーラ島へと退いた。
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