1860年の進軍とは? わかりやすく解説

1860年の進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:22 UTC 版)

ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「1860年の進軍」の解説

1860年初頭両シチリア王国メッシーナパレルモ起きた反乱は、ガリバルディ活躍機会与えた。彼は約1000人の義勇兵集め千人隊(または、皆に赤いシャツ着せたことから「赤シャツ隊」と呼ばれる)を結成した。2隻の船に分乗してジェノヴァ出発した彼らは5月11日シチリア島の最西端マルサラ上陸した各地反乱軍取り込んで軍の規模拡大させながら、5月13日にはカラタフィーミ敵軍撃退したガリバルディは、そこで自分シチリア支配者であることを宣言した5月27日には、島の首都パレルモへと進軍し包囲攻撃開始した。彼が駐屯軍に対して反抗していた住民支持取り付けたことは、この戦い有利に進めることのできた一つ原因いえよう。しかし街が陥落するよりも前、援軍到着により街はほぼ壊滅状態となったそのときイギリス海軍提督介入し、またナポリ王国艦隊が町包囲することによって停戦へ流れとなったガリバルディめざましい勝利世界的な名声イタリア中の賛美とを一度手に入れた。6週間後には島の東、メッシーナへと進軍した7月末には敵対勢力残されたのは1つの砦のみとなったシチリア島での進軍終え義勇軍ナポリ艦隊勢力下であるメッシーナ海峡渡ったガリバルディ進軍地元レジスタンス歓迎され9月7日にはナポリへと入城することができた。しかし彼はナポリ支配するブルボン家の王フランチェスコ2世身柄保証したシチリア軍のほとんどは依然として王党派であり、シチリアからナポリにかけて各地吸収したガリバルディ義勇軍25,000人に膨れ上がっていたため、彼らの意向無視できなかったからである。10月1日から2日にかけて、ヴォルトゥルノでの主要な戦い英語版)が勃発したが、戦闘大部分ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世指揮下のサルデーニャ軍に任された。 ガリバルディサルデーニャ王国首相カヴールに対して、深い嫌悪感抱いていた。彼はカヴール実用主義的現実主義的政策信用せず、また自らの生まれ故郷ニースフランス割譲した外交政策に対して個人的な恨みすら抱いていた。しかし一方でガリバルディサルデーニャによるイタリア統一に魅かれ始めていた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との有名な会談(「テアーノの握手イタリア語版)」として有名、1860年10月26日)ではガリバルディエマヌエーレ2世対しイタリア王として挨拶し握手した。そして全軍に対して「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。彼は次の日には一言陛下あなたに従います」とだけ言葉を残し、軍の職を辞した。彼が占領した地域全てヴィットーリオ・エマヌエーレ2世献上されイタリア統一大きな軍事的衝突回避する形で成就した11月7日には彼の働き対するどんな見返り断りつつ、カプレーラ島へと退いた

※この「1860年の進軍」の解説は、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の解説の一部です。
「1860年の進軍」を含む「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事については、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1860年の進軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

1860年の進軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1860年の進軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジュゼッペ・ガリバルディ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS