1860年代から1870年代
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「ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「1860年代から1870年代」の解説
ドイツの侯子カール・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンが1866年にクザの後継カロル1世として即位すると、彼は首都で起きた反ユダヤ人暴動に最初に直面した。憲法の起草が政府によって付託され、その第6条には「信仰の違いが市民権を得るための障害にはならない。」と明記されていた。しかし、「ユダヤ人に対しては考慮し、特別法が彼らの帰化に対する承認を制限するため考案されなければならないだろう。市民権も同様である。」とあった。1866年6月30日、ブカレスト・シナゴーグが冒涜され、荒れるがままにされた(同年に再建され、1932年と1945年に修復された)。多くのユダヤ人たちが殴られたり、大怪我を負い、金品を奪われた。その結果、第6条は取り消され、第7条「キリスト教を信仰する居留外国人だけが市民権を獲得できるものとする。」が1866年憲法に付け加えられた。 その後10年間、ユダヤ人の人権発令はルーマニア王国(トランシルヴァニア併合前の王国)の政界の最重要部分を占めていた。わずかな例外が知られる(1863年にヤシで結成されたルーマニア文学協会ジュニメア (Junimea)が、大多数のルーマニア人知識人たちは反ユダヤ主義を公言し始めていた。その最も猛烈なかたちは、急進的な自由主義の支持者たち、特に、ルーマニア人中流階級の地位向上をユダヤ人の移住が妨げていると論ずるモルダヴィア人たちの存在であった(彼らは1848年の革命を政治的基盤として、ユダヤ人移住に反対していた)。近代的偏見の最初の例は、モルダヴィア人の政党「自由独立派」(Fracţiunea liberă şi independentă、後に国民自由党に吸収された)と、詩人チェーザル・ボリアック(Cezar Bolliac)の周囲でできたブカレストのグループであった。彼らの談話では、ユダヤ人は文化的に同化できず、永久に外国人であるとみなした。この主張はしかし、一部の同時代の文献によって変えられていた。そして、結果として生じたのは、ユダヤ人とは別の、全ての移住者の受け入れであった。 反セム主義または反ユダヤ主義は、当時の国民自由党の主流となり、首相イオン・ブラティアヌ(Ion Brătianu)時代に公に実施された。彼の最初の首相在任時代、ブラティアヌは古い人種差別法を強化してユダヤ人に田舎への定住を許可しないとする項目を加えた(これにより多くのユダヤ人が強制移動させられた)。その一方で、多くのユダヤ人都市住民を放浪者と見なし、彼らは国内から追放された。1905年のジューイッシュ・エンサイクロペディアによれば、「ルーマニア人として生まれたことを証明できたユダヤ人たちはドナウ川(当時ワラキア=オスマン帝国間の国境となっていた)を渡ることを強いられた。しかしオスマン帝国が彼らの受け入れを拒否したため、彼らは川へ投げ込まれて溺死した。ヨーロッパ諸国はルーマニアの蛮行に衝撃を受けた。ルーマニア政府は列強から警告され、ブラティアヌはただちに解任された。」とある。ルーマニア保守党(Conservative Party)によって成立した内閣は、ジュニメアの首領を含んでいたけれども、ユダヤ人の置かれた状況をさらに改善しなかった。国民自由党が反対したからである。 それにもかかわらずこの時期、ルーマニアはイディッシュ演劇の揺りかごであった。ロシア生まれのアヴラム・ゴルドファデン(Avram Goldfaden)は、1876年にヤシで初のプロによるイディッシュ劇場を始めた。特に露土戦争(1877年-1888年)の間、ルーマニアはイディッシュ劇場の本拠地であった。劇場の重心は最初ロシアへ移り、その後ロンドン、ニューヨークへ移った。ブカレストとヤシはどちらも20世紀に至るまでイディッシュ劇場史に残る不朽の存在であり続けた。
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