1860年選挙、脱退の危機
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「1860年選挙、脱退の危機」の解説
スティーブンスは1859年12月に下院議員に就任したが、それはジョン・ブラウンが絞首刑になった数日後のことだった。ブラウンは奴隷の蜂起を期待してハーパーズ・フェリーの連邦政府武器庫を襲撃していた。当時スティーブンスはブラウンの暴力行為に反対したが、後にはそれを大いに認めるようになった。下院でも党派の対立が激化し、下院議長を選ぶためだけに8週間を費やした。スティーブンスは両陣営からの激しい非難の応酬の中でも活動的だった。ある時は、ミシシッピ州選出下院議員ウィリアム・バークスデールにナイフを突きつけられたが、流血沙汰にはならなかった。 1860年の大統領選挙では、民主党が一人の候補者に絞れなかった。シカゴで開催された共和党全国大会では、選ばれた候補者が大統領になれる可能性が強くなったので、重要なものになった。スワードやリンカーンのような党内の著名人物が指名を求めた。スティーブンスは75歳になっていたマクレーン判事に対する支持を続けた。3回目の投票でペンシルベニア州代議員の大半がリンカーンを支持し、これが契機になってリンカーンが指名された。スティーブンスの選挙区では民主党が候補擁立を見合わせたので、スティーブンスは再選されることを確信し、ペンシルベニア州におけるリンカーンの選挙運動に専念した。リンカーンは選挙人票の過半数を獲得した。この次期大統領は奴隷制度に反対する姿勢で知られており、即座に南部州では脱退が議論されるようになった。スティーブンスはこの脅威を選挙戦の間に軽視していた。 下院は1860年12月に招集されたが、既に南部州の幾つかは脱退を決めていた。スティーブンスはクリッテンデン妥協案のような南部人を宥める動きに対する反対姿勢を変えようとしなかった。その妥協案では奴隷制度を憲法修正では変えられない聖域にしようとしていた。スティーブンスは、北部でも南部でも広く引用された発言の中で、リンカーンが選出された故に妥協を提案するくらいなら、「この政府を1,000の原子にわかれるまで粉々にし」アメリカ合衆国軍がいかなる反乱者も砕いてしまうことだろうと述べた。スティーブンスの抗議にも拘わらず、レームダックとなったブキャナン政権は脱退の票決に何の反応もせず、南部にあった連邦政府の資源の大半を反乱者の手中に入るままに任せた。奴隷制度反対運動の中にあっても多くの者は、そうさせることに満足であり、南部がやりたいようにさせた。スティーブンスは同意できず、リンカーンが1861年3月4日の就任演説で「政府に属する資産と場所を保持し、占領し、所有する」と述べたことで「疑いもなく喜んだ」とされている。
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