1860年選挙、脱退、およびリンカーンの反応
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「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「1860年選挙、脱退、およびリンカーンの反応」の解説
多くの南部人にとって最後の藁(限度を超えさせるもの)となったものは、1859年に狂信的奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウンによって行われたハーパーズ・フェリー襲撃であり、その直後の1860年大統領選挙で北部共和党候補が勝利したことが続いた。議会多数派の民主党が北部と南部で分裂したことが大きく災いして、共和党のエイブラハム・リンカーンは一般選挙の得票率がわずか40%であり、選挙人投票では南部票を得られなかったにも拘わらず、大統領に当選した。実際に南部の996郡のうちわずか2郡のみがリンカーンを選んでいた。 南部人の多くはその政治的生き残り可能性を疑うようになった。サウスカロライナ州議会の議員達はリンカーンが当選した場合に合衆国からの脱退を誓っていた経緯もあり、1860年12月20日の投票によってその約束を果たした。サウスカロライナ州に続いてミシシッピ州議会が1861年1月9日に、フロリダ州議会が同10日に脱退を決めた。アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州およびテキサス州が翌月までにこれに続いた。現職大統領ジェームズ・ブキャナンは自身無力だと考えた。南部中で行政当局が連邦の武器庫や砦を抵抗もなく占拠した。リンカーンが当選してから就任するまでの4ヶ月間に、南部は妨害されることもなくその軍事力を強化した。 リンカーンは大統領に就任しても平和的な解決策が得られる見込が無かったが、南部州に合衆国への復帰を強制するために即座に軍事力を用いることは躊躇した。リンカーンは先に敵対的行動を採ることを望まなかった。チャールストン港にある連邦軍の保持するサムター砦に補給船を派遣すると、分離主義者側が行動を起こす必要性を感じた。砦への補給を防ぐために1861年4月12日に砲撃が開始され、迅速に砦の降伏を強いた。サムター砦への攻撃に反応したリンカーン大統領は即座に「通常の法的手続では抑圧できないような強力なものの組合せ」に対して、90日間徴兵の兵士75,000名を各州に要求した。バージニア州、アーカンソー州、テネシー州およびノースカロライナ州が迅速に、その隣人に対抗する兵士を派遣するよりも脱退することを議会決議で選んだ。 脱退した11州は別の国家であるアメリカ連合国を結成することで合意した。北部も南部も境界州を仲間に入れることを望んだが、北部は1862年から1863年に掛けてそれら全ての州を支配下に置いた。バージニア州ホイーリングにあった合衆国維持側の政府はバージニア州西部の50郡を支配して新しくウェストバージニア州を結成した。ただし、それらの郡の大半は分離主義者が優勢だった。1861年に始まった北軍による海上封鎖によって、アメリカ連合国は外の世界との通商をほとんどできなくなった。イギリスが所有する封鎖ランナーのみが封鎖線を突破した。南部の莫大な綿花はほとんど価値のないものになった。
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