サムター砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/15 08:22 UTC 版)
「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「サムター砦」の解説
その6日後でクリスマスの次の日、チャールストンにいたアメリカ軍の指揮官ロバート・アンダーソン少佐がチャールストン港にある島の要塞サムター砦に命令に反して退却させた。サウスカロライナ州兵は本土にある放棄された砲台に群がり集まり島に向けて大砲を撃つ訓練を行った。サムターは海軍がチャールストンへ侵入することを防ぐ重要な地点であり、南軍は連邦軍が無期限にそこに留まっていることを許すわけにはいかなかった。さらに重要なことは、外国(アメリカ合衆国)の軍隊がその最大の港を支配しているということは、アメリカ連合国が真に独立していないということを意味した。これはリンカーンが指摘したことであった。 2月4日コットン州7州の議会がアラバマ州モンゴメリーに集まり、アメリカ連合国の新しい憲法を承認した。リンカーンはアメリカ合衆国が「『不可分の』1つの国」であると述べ、南部諸州の脱退権を否定した。サウスカロライナ州は1861年2月8日にアメリカ連合国に加盟し、独立したサウスカロライナ州の状態を6週間足らずで終わらせた。バージニア州の政治家ロジャー・プライアは、「オールド・ドミニオン」(バージニア州の渾名)をアメリカ連合国に加盟させる唯一の方法は、サウスカロライナ州がアメリカ合衆国に戦争を仕掛けることだとチャールストンで言った。手始めの場所はチャールストン港の真ん中にあった。 港の縁には約6,000名の者が駐屯し、サムター砦の60名に向かって仕掛ける用意ができていた。4月12日午前4時半、激しい交渉のあった2日後、アメリカ海軍の艦船が港外にいる状況で砲撃が始まった。このことはジェファーソン・デイヴィス大統領とその内閣が決定した。エドマンド・ラフィンは通常、最初の砲弾を放ったものとされている。34時間後、アンダーソンの部隊が白旗を揚げ、軍隊旗を靡かせ太鼓を叩きながら砦から去ることを許された。アメリカ国旗を降ろすまえに50発の砲声を放って国旗を祝した。
※この「サムター砦」の解説は、「サウスカロライナ州の歴史」の解説の一部です。
「サムター砦」を含む「サウスカロライナ州の歴史」の記事については、「サウスカロライナ州の歴史」の概要を参照ください。
サムター砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:39 UTC 版)
「第二次チャールストン港の戦い」の記事における「サムター砦」の解説
ギルモアは塹壕を掘り進めていく難しさがあったものの、8月半ばまでにその攻城砲をサムター砦の射程内に据え付けることができた。8月17日、砲撃を開始し、最初の日に1,000発近い砲弾を放った。8月23日、砦の工作物が瓦礫に変わり、ボーリガードはできるだけ多くの砦の大砲を外させた。ギルモアは陸軍省に宛てて、「サムター砦は形がなくなり、無害な廃墟の塊となっている」と電報を打った。しかし、サムター砦砲撃はその後も12月31日まで続くことになった。
※この「サムター砦」の解説は、「第二次チャールストン港の戦い」の解説の一部です。
「サムター砦」を含む「第二次チャールストン港の戦い」の記事については、「第二次チャールストン港の戦い」の概要を参照ください。
- サムター砦のページへのリンク