サムター要塞最初の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 02:50 UTC 版)
「サムター要塞」の記事における「サムター要塞最初の戦闘」の解説
詳細は「サムター要塞の戦い」を参照 4月11日のサムター要塞の戦いでは、南軍のボーリガードは3人の副官、ジェームズ・チェスナット・ジュニア大佐、スティーブン・D・リー大尉と A・R・チザム中尉を送り、サムター要塞の降伏を要求した。アンダーソンは拒否し、副官たちはボーリガードに報告をするために帰還した。ボーリガードは、リロイ・ウォーカー陸軍長官に相談した後、副官を再び要塞に派遣し、要塞を力ずくで奪取するか否かの決定をチェスナットに委任した。アンダーソンが他の選択肢を検討し時間稼ぎを図る間、副官たちは数時間待機した。午前3時頃に、アンダーソンがついに降伏条件を告げたが、チェスナット大佐は同僚と相談した上で、アンダーソンが提示した条件は「明白に無駄で、我々に明示的に与えられた命令の範疇にない」と判断を下した。チェスナットらはそれから要塞を出て、近くのジョンソン要塞に向かった。チェスナットはジョンソン要塞からサムター要塞に向けて砲撃をするよう命じた。 4月12日午前4時30分に南軍砲兵隊は砲撃を開始し、砲撃は34時間連続で続いた。エドムンド・ラッフィン(著名なバージニア州の農学者にして連邦脱退主義者)は彼がサムター要塞に最初に砲撃したと主張した。彼の話は広範囲に信じられてきたが、実際にジェームズ島の2台の砲台に午前4時30分に発砲せよと命じたのはヘンリー・S・ファーリー中尉であった (Detzer 2001, pp. 269-71)。北軍の応戦は功を奏しなかったが、それは部分的には、南軍の砲火にさらされるであろう最上層の露天砲台に設置された火砲をアンダーソンが使用しなかったことによる。4月14日に北軍は降伏し、要塞は南軍に引き渡された。攻撃の間星条旗は落ちた。ノーマン・J・ホール中尉は星条旗を掲揚し直すために生命の危機を冒し、その時に彼の眉は焼かれ、元に戻ることはなかった。南軍兵士が大砲の不発弾により傷ついて出血多量で死亡したが、北軍兵士は実戦では死亡しなかった。ただし、南軍の許しを得て北軍が100発の告別の礼砲を撃っている際、47発目で暴発し、1名が死亡、1名が重傷を負った。その後、礼砲は50発に短縮された。メアリー・チェスナットの有名な日記などの記録によると、チャールストンの住人で、今日バッテリーパーク(en:Battery Park (Charleston)として知られる街路沿いに住む人々は、バルコニーに座って戦闘開始に敬意を表して乾杯していたという。 アンダーソン少佐がサムター要塞旗を北部に持って帰ると、それは民衆の愛国的シンボルとなった。旗は現在、サムター要塞博物館で見ることが出来る。
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