サムツヘとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「サムツヘとの戦争」の解説
サムツヘ公国(グルジア語版)のクヴァルクヴァレ2世は、ジョージア王国から独立する計画を再び開始した。クヴァルクヴァレ2世はギオルギ8世への宣戦布告の前に、アハルツィヘで独自の通貨を鋳造した。この通貨は法令で「メペ」(グルジア語: მეფე、グルジア語ラテン翻字: mepe、「王」を意味する)と名付けられた。クヴァルクヴァレ2世は白羊朝ウズン・ハサンの助力を得て、1462年(1461年あるいは1463年とする説もある)にギオルギ8世を破ってロリ地方を占領した。この攻撃中、白羊朝がサムツヘを荒らし回って破壊・略奪を繰り返したことから、ギオルギ8世はクヴァルクヴァレ2世に抗議の意を示した。 ギオルギ8世はクヴァルクヴァレ2世への報復を決意した。アタベグであったバグラト2世がイメレティ王として戴冠したことを知らされたギオルギ8世は、サムツヘに侵攻した。サムツヘの諸貴族はクヴァルクヴァレ2世の独裁的な統治を恐れ、ギオルギ8世は地元のほとんどの貴族から支持を受けた。イメレティのアタベグは一時的に、バグラト2世とともに避難することを余儀なくされた。ギオルギ8世が領地を不在にしたことで、ウズン・ハサンがジョージアに向かうための道が開かれた。ウズン・ハサンは1463年に将軍タヴリーズ・グイラックとティムールを派遣し、カルトリを破壊・略奪した。ギオルギ8世の軍は侵略者に向かって急ぎ反撃をしたが敗北し、その結果テュルク人がジョージア東部を荒廃させた。王国は状況をコントロールすることができず、東部領地のシルヴァン(グルジア語版)、アラン、モヴァカン(グルジア語版)は王国の支配を離れた。 その間クヴァルクヴァレ2世はバグラト2世の軍とともに、領地を回復するためにサムツヘへと向かった。アハルツィヘを奪還後、クヴァルクヴァレ2世はサムツヘの貴族たちを厳罰に処し、敵に回った貴族を処刑した。ザザ・パナスケルテル=ツィツィシヴィリ(グルジア語版)はジョージア王国に避難し、王室顧問となった。クヴァルクヴァレ2世はグリア公国(グルジア語版)のマミア・グリエリ(トルコ語版)公の助力を得た上で、忠誠心のない貴族の領地を取り上げ、代わりにアチャラ(グルジア語版)とチャネティ(グルジア語版)を与えることで、ジョージア西部の結びつきを弱めることを狙った。 1465年、ギオルギ8世は暗殺未遂に遭い、廷臣イオタム・ゼドゲニゼ(グルジア語版)が凶刃に倒れた。ギオルギ8世はゼドゲニゼの献身に敬意を表し、ゼドゲニゼの息子たちに貴族の昇進させ、カルトリの多数の城塞とゴリのモウラヴィ(グルジア語版)の地位、そして「カルトリの大元帥」の称号を与えた。この事件の後、ギオルギ8世はアラグヴィ公国(グルジア語版)と同盟を結び、再びサムツヘに侵攻することを決めた。 ギオルギ8世は2回目の暗殺未遂とクヴァルクヴァレ2世との交渉失敗を受け、その翌日にパラヴァニ湖で衝突した。戦いはジョージア王国軍が勝利したが、バグラト2世はクヴァルクヴァレ2世の衛兵に包囲された。バグラト2世は生き残った従者とともにクヴァルクヴァレ2世の衛兵に拘束された。ギオルギ8世の甥コンスタンティネ2世(グルジア語版)は捕囚から逃れジョージア王国軍を指揮したが、クヴァルクヴァレ2世がゴリを包囲する前に北へ逃げることを余儀なくされ、その後ジョージア西部へと逃れた。ギオルギ8世はアハルツィヘに投獄され、ジョージアの王としてのギオルギ8世の治世は終わりとなった。
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