1860年の選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:00 UTC 版)
詳細は「1860年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照 当初、ニューヨーク州のウィリアム・スワード、オハイオ州のサーモン・チェイスおよびペンシルベニア州のサイモン・キャメロンが共和党の大統領候補として有力であった。しかし、エイブラハム・リンカーンは下院議員を1期のみ務めただけだったが、1858年のリンカーン・ダグラス論争で名声を獲得し、党内に政敵がほとんどいなかったこともあって、他の候補者を凌いだ。1860年5月16日、リンカーンはイリノイ州シカゴでの党大会で共和党の指名を勝ち取った。 それに対する民主党の方はルコンプトン憲法に関する議論が元で分裂してしまっていた。民主党主流派はスティーブン・ダグラスの指名に動いたものの、ダグラスの奴隷制に対する態度に反感を持っていた南部の「けんかっ早い人(Fire-Eaters)」達はこの人選に反対、チャールストンでの第一回民主党大会から50人が退席してしまう。残りの民主党員達はダグラスを含めて6人の候補を選んだが、57回投票してもダグラスが2/3の票を得られなかったためそこで閉会し、バルチモアで第二回民主党大会を開く事となった。バルチモアでの民主党大会ではまず先の大会で退席した党員の処遇を巡って議論が勃発し、結局はアラバマ州とルイジアナ州の党員以外は復帰をさせるべきだという判断が150票対101票で決定されたもののこれを「北部の民主党員による党の乗っ取りだ」と感じた多くの党員(主にまだ退席していなかった南部諸州の党員ら合計55人)がさらに離脱し、結局残った党員達がダグラスを選出することで落ち着いた。 一方民主党大会から離脱した党員たちは独自の党大会を主催、南部民主党を立ち上げてジョン・ブレッキンリッジを大統領候補に指名した。この結果、南部の農園主層は国政を支配する手段を失った。民主党の分裂により、共和党の候補者は分裂した対抗馬と争うことになった。 リンカーンにとって都合の良かったことは、境界州の元ホイッグ党員が早くから立憲連合党を結成し、大統領候補にはテネシー州のジョン・ベルを指名したことである。このために各党指名候補は地域に偏った選挙戦を展開することになった。ダグラスとリンカーンは北部で、ベル、ブレッキンリッジおよびダグラスは南部で争うという形であった。結局北部ではリンカーンが圧倒的な支持を得てダグラスを下し、南ではブレッキンリッジがベルを下すと言う結果になった。一般投票では4割に少し届かない程度の票を獲得したリンカーンだったが選挙人の過半数を抑え(303人中180人)大統領職を射止める事となった。 「農場のために投票せよ、関税のために投票せよ」が1860年の共和党のスローガンであった。総じて実業家は農夫の土地に対する要求を支持し(工場労働者の集団にも人気があった)、その見返りに高い関税の支持を得た。1860年の選挙は産業革命によって解き放たれた新しい社会的階層の政治力をある程度まで高めた。1861年2月、アメリカ合衆国から7つの州が脱退した。4月から5月にさらに4つの州が脱退した。メリーランド州だけは戒厳令が布かれたために脱退できなかった。議会は北部が圧倒的多数となり、モリル関税を成立させた(ブキャナンが署名した)。これは関税率をあげ、政府が戦争を遂行する費用を手当するためであった。
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