1860年の中央駅
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「バーゼルSBB駅」の記事における「1860年の中央駅」の解説
1857年6月29日、バーゼル州議会はスイス中央鉄道とフランスの鉄道線を接続し、さらに恒久的な駅をエリザベス要塞 (Elisabethen-Bollwerk) の前に建設することを承認した。土地の購入費は町が負担した。 1859年の始めに、スイス中央鉄道はマリンクの設計による駅舎の建設を開始した。これには、グンデルディンゲン (Gundeldingen) 地区の旅客駅と、その脇に設置した貨物駅、2つの機関庫を含んでいる。機関庫のうち1つはスイス中央鉄道用で、もう1つは東部鉄道(フランス語版)用のものであった(1854年にストラスブール・バール鉄道は東部鉄道に合併)。 1860年6月4日、新しいバーゼル中央駅が開業した。ただし全ての設備の完成には1861年5月まで掛かっている。駅の建物は北側を新しく建設した駅前広場に面して建っていた。この駅は共同使用駅で、駅から東へはスイスの鉄道が、西へはフランスの鉄道が伸びていた。貨物駅と機関庫は駅舎より南側に位置している。 その後のバーゼル中央駅関連の開業事項は以下の通り: 1873年11月3日、バディッシャー駅とバーゼル中央駅を結ぶバーゼル連絡線(ドイツ語版)が開業 1875年8月2日、スイス中央鉄道とスイス北東鉄道の手で、プラッテルン(ドイツ語版)、ラインフェルデンを経由してバーゼルとチューリッヒを結ぶベーズベルク線(ドイツ語版)が開業 1875年9月25日、バーゼルを西部スイスやフランシュ=コンテと結ぶ、ビール、デル(フランス語版)へ向かうジュラ鉄道(ドイツ語版)とドレモンでの分岐線が開業 なおこの間、1871年に普仏戦争の結果としてアルザス=ロレーヌ地方がフランス領からドイツ領になったため、フランス東鉄道のアルザス=ロレーヌ地方内の区間はエルザス=ロートリンゲン帝国鉄道となり、ドイツ領と結ぶ路線となっている。 増大し続ける交通量に対して、バーゼル中央駅の処理能力は限界に達していた。手始めに貨物列車の解結作業が1875年に駅の東側の"auf dem Wolf"仮操車場に移転した。さらに、町の交通の障害となっていた踏切をアルザス線と中央駅を通り抜ける地下道もしくは跨線橋により除去する検討が始まった。1874年には既に、歩行者用の仮の木造跨線橋がマルガレーテン通り (Margarethenstrasse) とオイマット通り (Heumattstrasse) に架けられ、これは後に鋼製のものに置き換えられた。1879年には、現在ではペーター・メリアン橋 (Peter Merian-Brücke) になっている場所で、プフェーフィンガー通り (Pfeffingerstrasse) が地下道で開通した。 鉄道の国有化に関する国民投票を受けて、1898年に連邦参事会が以下の通り決定した。 現在地で新しい中央駅を建設する 駅全体を2.7メートル掘り下げる アルザス線を町を囲む大カーブを描く半地下線にする ヴォルフ仮操車場 (provisorischen Rangierbahnhof Wolf) への貨物扱いと車庫の完全移転
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