1860年の中央駅とは? わかりやすく解説

1860年の中央駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/26 14:33 UTC 版)

バーゼルSBB駅」の記事における「1860年の中央駅」の解説

1857年6月29日バーゼル州議会スイス中央鉄道フランスの鉄道線を接続し、さらに恒久的な駅をエリザベス要塞 (Elisabethen-Bollwerk) の前に建設することを承認した土地の購入費は町が負担した1859年始めに、スイス中央鉄道はマリンクの設計による駅舎建設開始した。これには、グンデルディンゲン (Gundeldingen) 地区旅客駅と、その脇に設置した貨物駅2つ機関庫含んでいる。機関庫のうち1つスイス中央鉄道用で、もう1つ東部鉄道フランス語版)用のものであった1854年にストラスブール・バール鉄道東部鉄道合併)。 1860年6月4日新しバーゼル中央駅開業した。ただし全ての設備完成には1861年5月まで掛かっている。駅の建物北側新しく建設した駅前広場面して建っていた。この駅は共同使用駅で、駅から東へスイスの鉄道が、西へフランスの鉄道伸びていた。貨物駅機関庫駅舎より南側位置している。 その後バーゼル中央駅関連開業事項以下の通り: 1873年11月3日、バディッシャー駅とバーゼル中央駅を結ぶバーゼル連絡線ドイツ語版)が開業 1875年8月2日スイス中央鉄道スイス北東鉄道の手で、プラッテルン(ドイツ語版)、ラインフェルデンを経由してバーゼルチューリッヒを結ぶベーズベルク線(ドイツ語版)が開業 1875年9月25日バーゼル西部スイスフランシュ=コンテと結ぶ、ビールデルフランス語版)へ向かうジュラ鉄道ドイツ語版)とドレモンでの分岐線開業 なおこの間1871年普仏戦争結果としてアルザス=ロレーヌ地方フランス領からドイツになったため、フランス東鉄道のアルザス=ロレーヌ地方内の区間エルザス=ロートリンゲン帝国鉄道となり、ドイツ領と結ぶ路線となっている。 増大し続け交通量に対してバーゼル中央駅処理能力限界達していた。手始め貨物列車解結作業1875年に駅の東側の"auf dem Wolf"仮操車場移転した。さらに、町の交通障害となっていた踏切アルザス線と中央駅通り抜ける地下道もしくは跨線橋により除去する検討始まった1874年には既に、歩行者用の仮の木造跨線橋マルガレーテン通り (Margarethenstrasse) とオイマット通り (Heumattstrasse) にけられ、これは後に鋼製のものに置き換えられた。1879年には、現在ではペーター・メリアン (Peter Merian-Brücke) になっている場所で、プフェーフィンガー通り (Pfeffingerstrasse) が地下道開通した鉄道国有化に関する国民投票受けて1898年連邦参事会以下の通り決定した現在地新し中央駅建設する全体を2.7メートル掘り下げる アルザス線を町を囲む大カーブを描く半地下線にする ヴォルフ操車場 (provisorischen Rangierbahnhof Wolf) への貨物扱い車庫の完全移転

※この「1860年の中央駅」の解説は、「バーゼルSBB駅」の解説の一部です。
「1860年の中央駅」を含む「バーゼルSBB駅」の記事については、「バーゼルSBB駅」の概要を参照ください。

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