1860年 - 1870年
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「リーハイ・バレー鉄道」の記事における「1860年 - 1870年」の解説
リーハイ・バレー鉄道は需要をもたらす多くのフィーダー路線の接続を受けて、リーハイ渓谷において急速に幹線となっていった。中部炭田からの石炭は、ビーバー・メドウ鉄道へのフィーダー路線であるクアケーク鉄道(英語版)、カタウィッサ・ウィリアムズポート・アンド・エリー鉄道(英語版)、ヘイゼルトン鉄道 (Hazelton Railroad)、リーハイ・ルザーン鉄道 (Lehigh Luzerne Railroad)やそのほかの小さな路線を通じてリーハイ・バレー鉄道へと運ばれた。カタソークア (Catasauqua) では、カタソークア・アンド・フォーゲルズビル鉄道(英語版)が石炭・鉄鉱石・石灰岩・鉄をトーマス製鉄(英語版)、リーハイ・クレーン製鉄(英語版)、リーハイ・バレー鉄工所 (Lehigh Valley Iron Works)、カーボン製鉄 (Carbon Iron Company) などの溶鉱炉へと輸送していた。ベスレヘムからはノース・ペンシルバニア鉄道(英語版)がフィラデルフィアまで連絡しており、フィリップスバーグからはベルビディア・デラウェア鉄道がトレントンまで連絡していた。ベルビディア・デラウェア鉄道の4フィート10インチ(1,473 mm)軌間に対処するために、両社の鉄道を直通する車両は幅の広い踏面を備えた車輪を使用していた。 1864年から、リーハイ・バレー鉄道はフィーダー路線の鉄道会社を買収して自社の鉄道網へ統合し始めた。最初の買収はビーバー・メドウ鉄道石炭会社とペン・ヘイブン・アンド・ホワイト・ヘイブン鉄道 (Penn Haven and White Haven Railroad) であった。1866年には当初クアケーク鉄道と呼ばれていたリーハイ・アンド・マホノイ鉄道を買収し、1868年にはヘイゼルトン鉄道とリーハイ・ルザーン鉄道とさらなる買収を行った。こうした買収により、リーハイ・バレー鉄道は石炭の輸送だけではなく石炭の採掘権も手に入れた。 1868年の買収は、炭鉱を買収して石炭の生産とその自社線での輸送を確実にするというリーハイ・バレー鉄道の戦略の始まりとなったという点で特筆される。1864年のビーバー・メドウ鉄道の買収でも数百エーカーに及ぶ炭鉱を含んでいたが、北のワイオミング渓谷(英語版)の炭田で、鉄道会社自ら安価に石炭を採掘・輸送していたデラウェア・アンド・ハドソン鉄道やデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道からの圧迫を1868年頃には感じるようになっていった。リーハイ・バレー鉄道は、自社の繁栄は残された炭田の買収にかかっているということを認識した。この戦略を追求して、1868年にヘイゼルトン鉄道とリーハイ・アンド・ルザーン鉄道を買収し、1,800エーカーの炭田を手に入れ、さらに追加の土地をリーハイ・バレー鉄道の支線に沿って手に入れていった。それからのほぼ12年にわたり、リーハイ・バレー鉄道は広大な土地を買収した。1870年には13,000エーカー、1872年には5,800エーカー、そして1873年にはマホノイ盆地に広大な土地を借り受けているフィラデルフィア炭鉱会社を買収した。1875年には所有している炭鉱がリーハイ・バレー鉄道の完全子会社のリーハイ・バレー炭鉱会社となった。1893年までにはリーハイ・バレー鉄道は53,000エーカーに及ぶ炭田の土地を所有するかまたは経営していた。 1860年代にはまた、リーハイ・バレー鉄道が北へウィルクスバリまで、そしてサスケハナ川に沿ってニューヨーク州境まで延長された。ワイオミング峡谷北部においてほぼ独占を達成できる好機を見て、1866年にリーハイ・バレー鉄道はサスケハナ川沿いのペンシルベニア運河ノース・ブランチ支線(英語版)を買収し、これをペンシルベニア・アンド・ニューヨーク運河鉄道会社 (Pennsylvania and New York Canal & Railroad Company) と改称した。鉄道路線の建設はすぐに始まり、1869年にはウィルクスバリからニューヨーク州ウェイバリー(英語版)まで開通し、そこで広軌のエリー鉄道に石炭を積み替えてバッファローから西部の市場へと出荷した。ウィルクスバリまでの到達に際しては、リーハイ・バレー鉄道はペン・ヘイブン・アンド・ホワイト・ヘイブン鉄道を1864年に買収し、ホワイト・ヘイブンからウィルクスバリまでの延長工事を行って1867年に開通した。1869年の時点で、リーハイ・バレー鉄道はイーストンからウェイバリーまで、ペンシルベニア州を縦貫する連続した鉄道路線を所有していた。1875年にはエリー鉄道の線路に3本目のレールを追加して三線軌条とし、炭鉱からバッファローの港まで車両が直通できるようにするために出資した。
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