1860年のシリア暴動
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「アブド・アルカーディル」の記事における「1860年のシリア暴動」の解説
1860年、レバノンでイスラム系のドゥルーズ派とキリスト教カトリック系のマロン派の内戦が発生する。両派は共にレバノンの山岳地帯を根拠地としており、19世紀前半から顕著に対立していたが、イギリスがドゥルーズ派に、フランスがマロン派に肩入れを行う形で介入し、度々武力衝突が発生した。中でも1860年に発生した紛争は特に激烈であり、アルカーディルの住むシリアのダマスカスにも暴動として内戦が波及する。当時、ダマスカス市内は完全にドゥルーズ派が優勢であり、また住民もドゥルーズ派ではないがイスラム教徒が大半であったことから、ドゥルーズ派によってキリスト教徒約3,000人が虐殺された。この惨劇が起こる以前、アルカーディルはドゥルーズ派の動きからフランス領事とダマスカス評議会に警告を発していたが、暴動が発生すると自らキリスト教徒の保護に乗り出した。邸宅をキリスト教徒を匿うために開放し、息子やアルカーディルを慕ってダマスカスに来たアルジェリア人らと市街地のキリスト教徒を保護して回った。 暴動の沈静化後にシリアでのアルカーディルの行動が伝えられると、「フランスの敵」から「フランスの友」に転換した最良の実例としてフランスが強く宣伝した意図もあり、世界各国に報道されて激しい反響を巻き起こした。フランスは年金を15万フランに増額するとともにフランスの最高勲章レジオンドヌール勲章を与え、ギリシャからは救世主勲章(英語版)、トルコからはメディジディー勲章(英語版)、バチカンからはピウス9世勲章を、エイブラハム・リンカーンからは象牙細工のピストルを、そして暴動を教唆したイギリスからは沈金彫で彩られたショットガンが贈られた。以降、アルカーディルは1864年にフリーメイソンへの招待を受け、1865年にナポレオン3世からの歓待を受けるものの、それ以外はダマスカス移住当初と同じく執筆活動に専念した。
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