1860年のシリア暴動とは? わかりやすく解説

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1860年のシリア暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 01:28 UTC 版)

アブド・アルカーディル」の記事における「1860年のシリア暴動」の解説

1860年レバノンイスラム系のドゥルーズ派キリスト教カトリック系マロン派内戦発生する。両派は共にレバノン山岳地帯根拠地としており、19世紀前半から顕著に対立していたが、イギリスドゥルーズ派に、フランスマロン派肩入れを行う形で介入し、度々武力衝突発生した中でも1860年発生した紛争は特に激烈であり、アルカーディルの住むシリアダマスカスにも暴動として内戦波及する当時ダマスカス市内は完全にドゥルーズ派優勢であり、また住民ドゥルーズ派ではないがイスラム教徒大半であったことから、ドゥルーズ派によってキリスト教徒約3,000人が虐殺された。この惨劇が起こる以前、アルカーディルはドゥルーズ派動きからフランス領事とダマスカス評議会警告発していたが、暴動発生すると自らキリスト教徒保護乗り出した邸宅キリスト教徒匿うために開放し息子やアルカーディルを慕ってダマスカスに来たアルジェリア人らと市街地キリスト教徒保護して回った暴動沈静化後にシリアでのアルカーディルの行動伝えられると、「フランスの敵」から「フランスの友」に転換した最良実例としてフランス強く宣伝した意図もあり、世界各国報道され激し反響巻き起こしたフランス年金15フラン増額するとともにフランスの最高勲レジオンドヌール勲章与えギリシャからは救世主勲章英語版)、トルコからはメディジディー勲章英語版)、バチカンからはピウス9世勲章を、エイブラハム・リンカーンからは象牙細工ピストルを、そして暴動教唆したイギリスからは沈金彫で彩られショットガン贈られた。以降、アルカーディルは1864年フリーメイソンへの招待を受け、1865年ナポレオン3世からの歓待を受けるものの、それ以外ダマスカス移住当初同じく執筆活動専念した

※この「1860年のシリア暴動」の解説は、「アブド・アルカーディル」の解説の一部です。
「1860年のシリア暴動」を含む「アブド・アルカーディル」の記事については、「アブド・アルカーディル」の概要を参照ください。

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