1860 - 1870年代
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「シベリア鉄道」の記事における「1860 - 1870年代」の解説
こうした頓挫にもかかわらず、1860年 - 1870年代は重要な進展を見せた。 1864年のヴャトカ飢饉の救済法を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を大体終えた3月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を防御する唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへ鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達するに及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう」と述べた。この報告はいくらかの注意を引くことになった。 貿易家リウビモフは、1869年にペルムよりクングル、エカテリンブルク及びシャドリンスクを経て、ウルガンの北49ベルスタのビエルーゼンスク村までを実測し、報告した。また、西シベリア総督クルシヨフは同年、ツァーリ(ロシア皇帝)に意見書を提出し、シベリア連結鉄道速成の必要を論じ、ニジニ・ノヴゴロドよりカザンを経て、チュメニに至る線の近いことを説明した。 こうして、三つの計画案である、バグダノウィッチの北方線路、リウビモフの中央線路、クルシヨフの南方線路が生じ、政府内においてもその実現に向けての議論が始まった。 政府においては議論の末、約700ベルスタの線路によってカマ川とトボル川とを連結することは可能とし、特別に委員を選定し、ウラル地方に派遣した。委員はウラル鉱業の利益とシベリア貿易の利益の両立を計量の基礎とすることを当初の指針としていたが、両立の不可能なことをみてとり、後者を排して前者を優先することとなった。 やがて政府は1872年に渡る測量の後、三幹線を計画した。すなわち、 キテシュマ - ヴャトカ - ペルム - エカテンリンブルク 933ベルスタ ニジニ - カザン - クラスヌ - フィムスク - エカテリンブルク 1172ベルスタ アラチル - ウファ - チェリャビンスク 1173ベルスタ また、審査委員会は1875年において、ニジニ・ノヴゴロドよりボルガ川岸に沿い、カザン、エカテリンブルク及びチュメニに達する線路を採択した。こうしてシベリア鉄道の計画は着々と推移していたが、チュメニを過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し、1875年、ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設の請願が出、政府もその必要性は認めたものの、財政の考慮から実行には至らなかった。 その間にも、本土の鉄道は随時拡張され、1877年にはオレンブルク鉄道、1878年にウラル鉄道が完成した。
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