1860 - 1870年代とは? わかりやすく解説

1860 - 1870年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:59 UTC 版)

シベリア鉄道」の記事における「1860 - 1870年代」の解説

こうした頓挫にもかかわらず1860年 - 1870年代は重要な進展見せた1864年ヴャトカ飢饉救済法を視察するため、1866年同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を大体終えた3月23日内務大臣電報送り、「将来ウラル地方飢饉防御する唯一実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニ鉄道敷設することにありますこのような線は、将来シベリア貫き中国境に達するに及び、軍事上及び貿易最大重要のものとなるでしょう」と述べた。この報告いくらか注意を引くことになった貿易家リウビモフは、1869年ペルムよりクングル、エカテリンブルク及びシャドリンスクを経て、ウルガンの北49ベルスタのビエルーゼンスクまでを実測し、報告したまた、西シベリア総督クルシヨフは同年ツァーリロシア皇帝)に意見書提出しシベリア連結鉄道速成の必要を論じニジニ・ノヴゴロドよりカザン経てチュメニに至る線の近いことを説明した。 こうして、三つ計画案である、バグダノウィッチの北方線路、リウビモフの中央線路、クルシヨフの南方線路が生じ政府内においてもその実現に向けて議論始まった政府においては議論の末、約700ベルスタ線路によってカマ川トボル川とを連結することは可能とし、特別に委員選定しウラル地方派遣した委員ウラル鉱業利益シベリア貿易の利益両立計量基礎とすることを当初指針としていたが、両立不可能なことをみてとり、後者排して前者優先することとなった。 やがて政府1872年に渡る測量の後、三幹線計画した。すなわち、 キテシュマ - ヴャトカ - ペルム - エカテンリンブルク 933ベルスタ ニジニ - カザン - クラスヌ - フィムスク - エカテリンブルク 1172ベルスタ アラチル - ウファ - チェリャビンスク 1173ベルスタ また、審査委員会1875年において、ニジニ・ノヴゴロドよりボルガ川岸に沿い、カザンエカテリンブルク及びチュメニ達す線路採択した。こうしてシベリア鉄道計画着々と推移していたが、チュメニ過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し1875年ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設請願が出、政府もその必要性認めたものの、財政考慮から実行には至らなかった。 その間にも、本土鉄道随時拡張され1877年にはオレンブルク鉄道1878年ウラル鉄道完成した

※この「1860 - 1870年代」の解説は、「シベリア鉄道」の解説の一部です。
「1860 - 1870年代」を含む「シベリア鉄道」の記事については、「シベリア鉄道」の概要を参照ください。

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