鉄道路線の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 02:11 UTC 版)
この残りの余剰電力を消費するために計画されたのが宮城電気鉄道だった。当初の計画では、宮城県仙台市の宮城県庁付近を起点として、当時の宮城郡原町、岩切村、高砂村、多賀城村、塩竈町を経て松島村に至る鉄道路線だった。建設費は270万円と見込まれていた。収支の概算では仙台と塩竈の間の旅客が主要な利用客と見なされ、貨物については塩竈と松島の間は一切考慮されていなかった。 この鉄道の免許申請は1921年(大正10年)5月に行われた。当初の発起人には高田釜吉や山本豊次など、高田商会の関係者10名が名を連ねた。『松島町史』では、宮城電気鉄道の発起人として伊沢平左衛門、中村梅三、松良善熙、遊佐寿助、大宮司雅之輔、齋藤宗蔵、西条芳三郎、高城畊造が挙げられているが、これについては宮城電気鉄道の計画の進展に伴って発起人が高田商会の関係者から地元の有力者に移されていった結果ではないだろうかと『石巻の歴史』は推し量っている。また、翌年に200名近くの発起人が追加された。この鉄道計画は1921年(大正10年)12月に許可され、これから間もない1922年(大正11年)3月に松島から石巻までの区間の追加申請が行われた。この路線の延長は、当初から構想としてあったものとも、石巻の実業家の働きかけの結果とも言われている。石巻への延長の許可は1923年(大正12年)3月におりた。一方で、宮城県庁から省線の仙台駅までの区間は、仙台市電の建設計画に影響を受けて断念された。 鉄道会社の創設のために10万株が募集された。発起人引き受け分が5万560株、賛成人引き受け分が4万9440株、株主は合計2976人となった。1922年(大正11年)9月、仙台市公会堂で宮城電気鉄道の創立総会が行われた。ここで、社長に山本豊次が選ばれ、相談役に高田釜吉が就いた。資本金は500万円だった。当時、松島には東北本線の松島駅(初代)があり、また塩竈には塩竈線の塩竈駅があって、それぞれ鉄道で仙台駅と結ばれていたが、山本は国有の幹線鉄道とは異なる都市型の近郊鉄道を目指していたとされる。 こうして鉄道の敷設に取り掛かることになった宮城電気鉄道だったが、その前途は多難だった。1923年(大正12年)3月、高田鉱山で大火災が発生し、同年9月1日には大正関東地震(関東大震災)が発生した。この影響で宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会の経営は傾き、宮城県の事業から手を引いた。また、東京の株主からの払い込みも滞った。資材の搬入も遅れた。こうした困難な状況の中で、山本は宮城電気鉄道に残り、鉄道の建設に専念する道を選んだ。高田商会の撤退で資金繰りに困った宮城電気鉄道はまず安田銀行に相談したが、これは結実しなかった。宮城電気鉄道に救いの手を差し伸べたのは日本生命保険の弘世助太郎で、日本生命保険は宮城電気鉄道に100万円を融資した。ただしこれは、開業後の1926年(大正15年)に仙台駅から西塩釜駅までの区間を担保として行われたものである。宮城電気鉄道は石巻までの全線開通までに、やはり路線自体を担保に日本生命保険から合計300万円を借り入れた。
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