政治と軍隊の経歴
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「カドワラダー・ウォッシュバーン」の記事における「政治と軍隊の経歴」の解説
1854年、共和党員としてウィスコンシン州のアメリカ合衆国下院議員選挙に出馬して当選し、1855年3月4日から1861年3月3日まで3期務めた。3期目には私有地クレーム下院委員会の委員長を務めた。1860年の選挙は出馬を辞退した。 ウォッシュバーン家は常に強く奴隷制に反対していた。 ウォッシュバーンは1861年にラクロスに移動したが、その年後半に、南北戦争を起こさないために開催された休戦協議の代議員としてワシントンD.C.に戻った。南北戦争では北軍に入り、1682年2月6日に第2ウィスコンシン志願騎兵隊の大佐となり、7月16日には准将、11月29日には少将に昇進した。ユリシーズ・グラントのビックスバーグ方面作戦の初期段階では第13軍団の騎兵隊を指揮した。ビックスバーグ市に対する包囲戦が始まり、グラントがあらゆる利用可能な部隊を要求すると、ウォッシュバーンは包囲の間第16軍団の分遣隊を率いた。ナサニエル・バンクスのテキサス海岸での作戦行動では第13軍団の第1師団を指揮した。 戦争の残り期間、ウォッシュバーンはミシシッピ州やテネシー州で管理的業務を行った。南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将が1864年のテネシー州メンフィス襲撃(第二次メンフィスの戦い)を率いた。ウォッシュバーンは捕獲を免れるためにナイトシャツのままその作戦本部を逃げ出しピッカリング砦まで逃げることを強いられた。ウォッシュバーンは1865年5月25日に北軍を除隊した。ウォッシュバーンはエイブラハム・リンカーンが署名した任命書を持つ栄誉に浴した。ある時点では、グラントがウォシュバーンのことを「我々が得られる最善の管理士官の一人」と呼んだ。 戦争が終わるとウォッシュバーンはラクロスの家に戻り、再度アメリカ合衆国下院議員に選ばれて1867年3月4日から1871年3月3日まで2期務め、1期目に公共建造物歳出委員会の委員長を務めた。1870年の選挙は出馬を辞退した。 1871年、ウォッシュバーンはジェイムズ・R・ドゥーリトル閣下に対抗してウィスコンシン州知事選への出馬を勧められた。ウォッシュバーンは選挙に勝って1872年1月の第1月曜日に知事に就任し、1874年まで務めた。1873年の再選を求めた選挙では落選した。 その1年後にエッジウッド・ヴィラ領地をサミュエル・マーシャルから購入したが、そこには現在エッジウッド大学が建っている。
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