リンカーン・ダグラス論争とは? わかりやすく解説

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リンカーン・ダグラス論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 07:04 UTC 版)

リンカーン・ダグラス論争(リンカーン・ダグラスろんそう、: Lincoln–Douglas debates)は、1858年エイブラハム・リンカーンスティーブン・ダグラスとの間に行われた7回にわたる討論会で行われた論争である。リンカーンはイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員の共和党候補であり、ダグラスは現職上院議員で民主党から再選を求めて出馬していた。リンカーンとダグラスはイリノイ州議会をそれぞれの党が支配できることも求めていた。この論争は、リンカーンが1860年アメリカ合衆国大統領選挙で当選したあとに直面することになる問題を浮き彫りにしていた。7回の討論で議論された主論点は奴隷制度だった。


発言

  1. ^ 第1回討論、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – リンカーンは次のように語っていた。「その判事(ダグラスのこと)に対して、奴隷制度はある州では80年間も存在しているが、ある州では存在していないと私がしばしば言っていたことを思い出させてくれたとき、私はその事実に同意し、建国の父達が当初決めた制度、すなわち新しい領土では奴隷制度を制限し、奴隷制度が広がるのを封印するために奴隷貿易を禁止することでその供給源を絶つという立場で見ることにより、説明できる。大衆の心は、奴隷制度が究極的な廃絶の過程にあるという信念には拠っていない(「そうだ、そうだ、そうだ」の叫び声)。しかし、最近、私が思うに、ここで判事の動機について何も告発はしないが、最近私が思うに、彼および彼と共に動いている人たちはあの制度を新しい基盤に据え、それが奴隷制度を恒久的かつ全国的なものに見えるようにしていると思う。それが新しい基盤に据えられる一方で、奴隷制度の反対者がこれ以上の制度拡大を止めるまで、また大衆心理が制度の究極の廃絶に向かっていると考えるようになる所に置くまで、この問題は落ち着かないと考えると言っており、これまでも言ってきた。一方で、奴隷制度の提唱者は、古きも新しきも、北部と言わず南部と言わず、全ての州で等しく合法になるまで突き進むことだろう」
  2. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – スティーブン・ダグラスは次のように語っていた。「1853年から1854年の連邦議会会期で、私はアメリカ合衆国上院に、1850年の妥協手段で採択されていた原則に基づき、カンザスとネブラスカの準州を組織化する法案を提出した。これは1851年のイリノイ州でホイッグ党と民主党に承認され、1852年のホイッグ党と民主党の全国大会で追認されたものだ。カンザス・ネブラスカ法に盛り込まれた原則に関して誤解の無いようにするために、わたしは次の言葉で法の真の意図と意味合いを提示する。『如何なる州でも準州でも奴隷制度を合法化するのではなく、それを排除するものでもなくて、州法や州の制度として奴隷制度を定めるかは、唯一合衆国憲法に従うのみで、その他は完全にその州民に任せられることが真の意図と意味合いである』」
  3. ^ 第3回討論会、イリノイ州ジョーンズボロ、1858年9月15日 – リンカーンはダグラスの仲間である民主党員が、アメリカ合衆国憲法を策定した人々の方針は、1787年の北西部条例を初めとして、奴隷制度の拡大を防止することにあると語っていたことに言及した。リンカーンはそれを証明するために次の議事録を使った。「そこで再度、1850年と同じやり方で、ジョリエットで連邦議会予備会議があり、R・S・モロニーを代表に指名し、次の決議を全会一致で採択した『決議、我々は奴隷制度の拡大に断固として反対すること。奴隷制度が既に存在する州の利益を妨げるような反対をする意図はないが、現在自由領域である準州に奴隷制度を拡大することには反対するのが連邦議会の義務であることを、穏やかではあるがきっぱりと主張し、このとき憲法の義務に矛盾しないことと、同朋である州に対しても誠実であることとする。さらにこれらの方針は1787年の条例で認知されており、その条例は我々の信念の偉大な提唱者であり解説者だったと認められているトーマス・ジェファーソンによって認可を受けていた。』」
  4. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – リンカーンは奴隷制度の拡大を防ぐ方針に戻ることを提案し、「建国の父達が当初設定した姿勢は、奴隷制度が無かった新しい領土ではその制度を制限すること」とした。この見解を特に後のクーパー・ユニオン演説で拡張し、アメリカ合衆国憲法策定者の大半は、1787年条例とミズーリ妥協という手段で奴隷制度の拡大を防止することを決めたと論じた。
  5. ^ 第3回討論会、イリノイ州ジョーンズボロ、1858年9月15日 – リンカーンは、「この(1850年)妥協が作られたとき、ミズーリ妥協を撤廃はしなかった。現在のアメリカ合衆国領土の半分に相当する地域、すなわち北緯36度30分より北の地域は、連邦議会の法によって奴隷制度が禁じられているままにした。この妥協は以前のものを撤廃はしなかった。それを撤廃することに影響せず、提案もしなかった。しかし、少なくとも領土委員会の委員長であるダグラス判事が考えた様に(私は彼について何の欠点も見いだせない)、まず1つ、続いて2つのその線より北にある準州政府組織化について法案を提出するのがダグラス判事の任務になってきた。彼がそうすれば、ミズーリ妥協を実質的に撤廃する条項を挿入することでミズーリ妥協は終わることになる。それは1850年妥協がミズーリ妥協を撤廃しなかったからである。そして私は、彼が何故1850年妥協だけにして置けなかったかを問いかける。」と語った。
  6. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – リンカーンは、「それでは奴隷制度を全国的なものにするには何が必要だろうか?それは単純に新たなドレッド・スコット判決である。単に最高裁判所が、憲法下では連邦議会も準州議会も奴隷制度を排除できないと既に裁定したように、憲法下の如何なる州もそれを排除できないと裁定を下すことである。」と語った。
  7. ^ 第3回討論会、イリノイ州ジョーンズボロ、1858年9月15日 – リンカーンは、「この政府が最初に作られたとき、その設立者達の方針は、それまで奴隷制度が存在していなかったアメリカ合衆国の新しい領土までの奴隷制度拡大を禁じることだった。しかし、ダグラス判事とその友人達はその方針を破り、奴隷制度が全国的で恒久的なものになる新しい基準を据えた。私が求め望む全てはその基準をこの政府の設立者達が設定した基準に再度戻すことである。わたしは疑いなく将来永久に奴隷制度は無くなると考えており、それは既に存在する制限内に奴隷制度を制限することで、つまり新しい準州には奴隷制度をもたらさないようにすることで、建国の父達の方針を再度採用しさえすればよいことである。」と語った。リンカーンはさらにダグラスが「建国の父達の方針を変える主導者となってきた」と付け加えた。
  8. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – ダグラスは共和党の1集団が奴隷制度の拡大と逃亡奴隷法に反対して書いた記事を読み上げ、「さて紳士諸君、あなた方ブラック共和党はこれら命題のすべてに喝采を送ってきた。敢えて私は、これらの1つ1つに賛成していることを言うために、リンカーン氏を出て来させることはできないと言いたい」と語った。
  9. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – ダグラスは「リンカーンは全ての州で古いホイッグ党を奴隷制度廃止論で固めるために動き、かれは以前と同じように良きホイッグ党員の振りをしていた。さらにトランブルは彼の受け持ち州に行って、その柔らかで軽い方法で奴隷制度廃止論を説き、民主党を奴隷制度廃止論に導こうと努め、民主党員に手錠をかけ、手足を縛って奴隷制度廃止論のキャンプに連れて行こうとしている。それをやるために(共和)党は1854年10月にスプリングフィールドで集会を開き、新しい綱領を宣言した。リンカーンは奴隷制度廃止論のキャンプに古い路線のホイッグ党員を連れて行き、既に彼等の受入準備ができており、新しい信仰の洗礼を行うべく、ギディングス、チェイス、フレッド・ダグラス、およびパーソン・ラブジョイのところに渡した。彼等は新しく結成される共和党の綱領をその機会に制定した。」と語った。
  10. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – ダグラスはリンカーンの「分かれたる家演説」について次のように語った。「リンカーンは今奴隷制度廃止論という立場を採り、その宣言をしている。彼が上院議員候補に指名されたスプリングフィールド党員集会で行った演説の一部を読ませて欲しい。 そこでは『思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。分かれたる家は立つこと能わず。半ば奴隷で、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはないでしょう。私は連邦が瓦解するのを期待しません。- 家が倒れることを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことを止めることです。それは全体として一方のものになるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。奴隷制度反対者が、奴隷制度のこれ以上の蔓延を阻止し、一般人心をして、それが究極には絶滅される運命に置かれたと信じて、安堵せしめるか、あるいは奴隷制度擁護者が、奴隷制度をおし拡めてついには新旧各州に、また南北両地方において、奴隷制度を合法的とするにいたるか、そのいずれかでありましょう(高木八尺、p.43-44)。』と言っている」
  11. ^ 第1回討論会、イリノイ州オタワ、1858年8月21日 – リンカーンは、「それでは奴隷制度を全国的なものにするには何が必要だろうか?それは単純に新たなドレッド・スコット判決である。単に最高裁判所が、憲法下では連邦議会も準州議会も奴隷制度を排除できないと既に裁定したように、憲法下の如何なる州もそれを排除できないと裁定を下すことである。それが裁定され、全体に黙従されれば、事は成る」と語った。
  12. ^ 第2回討論会、イリノイ州フリーポート、1858年8月27日 – ダグラスはその「フリーポート原理英語版」について次のように述べた。「現憲法下で、ある準州に奴隷制度を導入するかしないかという抽象的な疑問に関して、今後最高裁判所が如何様な判決を下したとしても、住民はその望むところに従って奴隷制度を導入するか排除するか合法的な手段をもっているのであり、それ故に地元の警察の規制に支援されなければ、奴隷制度は1日も、1時間たりとも存在できない。警察の規制は地方議会によってのみ確立されるのであり、住民が奴隷制度に反対するならば、その中に制度を導入することを効果的に防ぐ議会に代表を選出することになる。もし導入に賛成であれば、その議会が奴隷制度拡大に賛成するだろう。この抽象的問題に最高裁判所がどのような裁定を下そうと、ネブラスカ法の下では、住民が奴隷制準州とするか自由準州とするかを決める権利は完全なものである。」
  13. ^ チャールストン討論会 — ダグラスは、「北部での彼等の原則は真っ黒、中部ではそこそこ混血の色、エジプト低地ではほとんど白だ。私はジョーンズボロでのリンカーンの演説に含まれる多くの白人感情を賞賛するが、同じ傑出した演説家が州北部で行った演説と対比せざるを得ない」と語った。
  14. ^ 第3回討論会、イリノイ州ジョーンズボロ、1858年9月15日 – リンカーンは、「奴隷制度問題で我々が概して比較的平和な状態を保ち、新しい準州に奴隷制度を広げることで喚起されるまでは警鐘の理由がなかったことは価値がある。奴隷制度が現在の境界に制限されている限り、またそれを広げる動きが無い限り、平和が続く。トラブルと動乱の全ては奴隷制度を多くの領土に広げようという動きから起こされてきた。それがミズーリ妥協の時だった。テキサス併合の時がそうであり、メキシコ戦争で領土を獲得した時がそうであり、そして今だ。奴隷制度を拡大しようという時はいつも、扇動と抵抗があった。さて私は聴衆に(その中の数少ない者達は私の政治的友人だ)、国民として、この問題に関する扇動が止む事を期待する理由があるか、扇動を再生する傾向のある理由が実際に働くかを訴える。ミズーリ妥協が生まれた1820年に扇動を生んだのと同じ理由が、テキサス併合などのときに扇動を生み、常に同じ結果になるのだろうか?」と語った。

出典

  1. ^ Nevins, Fruits of Manifest Destiny, 1847–1852, page 163 — "As the fifties wore on, an exhaustive, exacerbating and essentially futile conflict over slavery raged to the exclusion of nearly all other topics."
  2. ^ Abraham Lincoln, Speech at New Haven, Conn., March 6, 1860 — "This question of Slavery was more important than any other; indeed, so much more important has it become that no other national question can even get a hearing just at present."
  3. ^ Abraham Lincoln, Notes for Speech at Chicago, February 28, 1857
  4. ^ David Herbert Donald, Lincoln, pages 206–210
  5. ^ David Herbert Donald, Lincoln, pages 212–213
  6. ^ Allan Nevins, Ordeal of the Union: Fruits of Manifest Destiny 1847–1852, pages 219–345
  7. ^ a b First Debate: Ottawa, Illinois, Douglas quote, August 21, 1858
  8. ^ a b c d First Debate: Ottawa, Illinois, August 21, 1858
  9. ^ James McPherson, Battle Cry of Freedom, page 195
  10. ^ David Herbert Donald, Lincoln, pages 220
  11. ^ Debate at Charleston, Illinois, September 18, 1858
  12. ^ David Herbert Donald, Lincoln, page 221
  13. ^ Debate at Galesburg, Illinois, October 7, 1858 — These quotes were originally from a speech made by Lincoln at Chicago, July 10, 1858
  14. ^ a b Debate at Alton, Illinois, October 15, 1858
  15. ^ Debate at Quincy, Illinois, October 13, 1858
  16. ^ Guelzo, Allen C. (2008). Lincoln and Douglas: The Debates That Defined America. Pages 273–277


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