停戦へ
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冷戦が終結し、2001年アメリカ同時多発テロによるイスラム過激派の台頭や1998年の北アイルランド問題の和解などでテロリズムの流れが変わった後もETAは活動を続行していた。しかし2006年マドリード=バラハス空港爆弾事件やグアルディア・シビル隊員射殺事件の首謀格としてフランス警察とスペイン治安警察が2008年11月にETAコマンド部隊の主要人物であるミゲル・ガリコイツ・アスピアス・ルビーナを逮捕。2009年にはパルマノバ爆弾事件を起こすも、実行犯は2009年から2010年の間に逮捕された。その際に、フランス国内に有った12ヶ所の小規模なアジトが発覚し大量の爆発物が押収された。その後2011年10月にETAは休戦を発表し、2014年には専門家らによる国際検証委員会に武器の一部を提出する動画を発表した。
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停戦へ
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ギリシャでのカラマンリス政権発足を受け、ジュネーヴで英希土三者会談が開催された。ここでトルコはキプロスを2つに分けて連邦制を導入することを主張したが、ギリシャは拒否した。イギリス外相ジェームズ・キャラハンは両軍が前線から撤退して空白地帯を形成することを提案、トルコは同意したが、ギリシャはこれも拒否した。しかし、7月30日にギリシャが譲歩して同意した。 8月3日、キプロスにおいて国連軍、イギリス軍、ギリシャ軍、トルコ軍らによる司令官レベルの停戦ライン策定作業が開始されたが、その作業は難航した。さらにジュネーヴ第2次会議が8月8日から開催されたが、トルコが連邦制の導入を再度主張し、ギリシャがまたも拒否した事で決裂した。 8月13日午前2時半、増強されていたトルコ軍は再度攻撃を開始。ギリシャ軍もこれに応戦したが、武器の足りないギリシャ軍は圧倒的不利であった。午前8時、トルコ首相エジェヴィトは声明で「トルコ系住民らが差別を受けているために戦うのであってキプロス全土を掌握することが目的でない」旨を発表した。これに対しギリシャ首相カラマンリスは「希土間の紛争を解決できないNATOからの脱退」を宣言することで応じた。 カラマンリスとエジェヴィトが言葉の応酬を続けている間もトルコ軍は猛攻を続けており、北部にいたギリシャ系住民らは南部へ避難した。このため国連では緊急安保理事会が開催されたがトルコへの非難決議案は採択されず、「トルコが停戦違反を続ける場合、より適切な処置をとる可能性がある」というあいまいな決議が採択されたにすぎなかった。そのため、8月16日、ギリシャは国連安保理事会において国連軍の出動を要請したが、これはアメリカや、トルコも属するイスラム圏諸国の反対により否決された。 結局、8月16日午後6時にトルコ軍は軍事活動を停止。キプロスでの戦火は鎮まることとなった。 トルコ軍介入前のキプロスではトルコ系住民地区が分散していたため、トルコ軍が展開できなかった地域ではトルコ系住民が周囲のギリシャ系住民により虐殺された村もあった。逆にトルコ系住民に襲撃されたギリシャ系の村もあった。英軍や国連軍に保護された難民もいた。
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