停戦とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:08 UTC 版)
「ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「停戦とその後」の解説
ポツダム宣言受諾後の8月16日朝、アメリカからの停戦命令を受けた大本営は、午後4時に陸海軍に対し即時停戦を命じた。大本営からの正式な停戦命令が関東軍に伝わったのは、16日午後6時頃であった。山田乙三関東軍総司令官と秦彦三郎総参謀長が開いた幕僚会議では、徹底抗戦の声が多数を占めていたが、山田と秦は停戦命令に従う意志を表明し、結局は停戦に応じることになった。しかし、ソ連軍総司令部では停戦命令が未だ出されていないと見做されたため、前線部隊に攻撃続行を命じた。スターリンは戦後の占領区域を少しでも多く確保するため降伏文書の調印まで攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。関東軍が17日朝に出した停戦命令も通信網の分断により中々届かず、実際には各地で戦闘が継続していた。関東軍総司令部は、16日夜からソ連軍総司令部との接触を試みたが当初通じず、17日の午後になってようやく連絡が取れた。19日午後3時半頃、第1極東戦線司令部があるソ連沿海州ジャリコーボで会談が開かれ、武装解除についての取り決めでは日本軍の名誉を重んじ帯刀を許可する事も決定されたが、結果的にこれは反故にされてシベリア抑留を受ける事になった。 ソ連軍の侵攻に伴い、関東軍は遷都の名目で満洲国皇帝溥儀を臨江に移動させたが、日本の降伏によって後ろ盾が消えた満洲国の張景恵首相は、国家の解体と皇帝の退位を決定した。退位後の溥儀は日本への亡命を希望したが、奉天の飛行場から出発する間際に侵攻してきたソ連軍に拘束されて5年間抑留された。
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